ギリシャ解放とその後とは? わかりやすく解説

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ギリシャ解放とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:13 UTC 版)

第二次世界大戦時のギリシャ」の記事における「ギリシャ解放とその後」の解説

詳細は「ギリシャ内戦」を参照 ウクライナより東進しているソビエト赤軍バルカン半島ドイツ軍孤立化させる恐れがあったため、1944年後半ドイツ軍ギリシャより撤退開始していた。 1944年9月民族人民解放軍全土一斉蜂起行い10月イギリス軍ギリシャ上陸が行われ、11月4日ドイツ軍撤退するパパンドレウ解放されアテネ入り民族統一戦線内閣編成共産主義者入閣することとなった。しかし、ドイツ占領下崩壊した経済寸断され交通網ギリシャ深刻な状況作り出しており、すでに占領下天文学的数字達していたインフレはさらに膨れ上がることとなった解放され喜びもつかの間パパンドレウイギリスゲリラ正規軍置き換えるという問題直面した民族人民解放軍男女合わせて約6存在潜在的脅威化していたが、すでに合意されているとされた手段対し共産主義者は軍の解体拒絶12月1日民族解放戦線閣僚辞任3日にはアテネにおいて抗議集会開催したデモ隊シンダグマ広場差し掛かったとき、警官隊はこれを銃撃死者15名を出すこととなった。 これを受けた民族人民解放軍パパンドレウ政府の動揺を誘うために、アテネにおいてイギリス軍司令官スコビーの命令により民族人民解放軍排除命令受けたイギリス軍部隊激し市街戦を展開、さらにクリヴァス大佐率い非正規部隊民族人民解放軍攻撃参加したチャーチル外務大臣アンソニー・イーデンアテネ向かったが、成果を挙げることはできなかった。そこでチャーチルアテネ大主教ダマスキノスを摂政に置くことを国王ゲオルギオス認めさせた。そして左派懐柔行い平和裏戦後体制整えようとしていたパパンドレウ首相辞任共和派のプラスティラスが首相となり、民族解放戦線との停戦乗り出した。そして、ギリシャでの共産勢力封じ込め決定していたイギリス政府イギリス軍部隊イタリアから派遣、困難を伴いながらもアテネでの優勢勝ち取り1945年1月半ば停戦こぎつけたが、この事件は『十二月事件』と呼ばれギリシャ内戦状態突入した2月半ば、ヴェルキザ協定締結され民族人民解放軍武装解除承諾、その見返りに『政治犯罪』における特赦約束議会選挙を行う前に君主制是非について国民投票を行うことを勝ち取った。しかし、この協定イギリスは守る気もなく、民族解放戦線共産党への弾圧強化対敵協力者積極的に登用して軍、警察強化行ったため、ヴェルキザ協定事実上無効化された。そして、アテネにおけるこの市街戦さらなる戦闘を招く結果になっただけであり、反共産主義者共産主義者に対して無差別な復讐行い事実上白色テロ展開された。 1945年末、首相にはセミストクリス・ソフリスが就任していたが、1946年3月31日選挙行いその後国民投票を行うと宣言、これも以前同意されたヴェルキザ協定反するものであった。そのため、共産党はこれに抗議、ニコス・ザハリアディス指導の元、投票棄権した。そのため、選挙においては右派人民党主導権握っていた右翼連合圧倒的勝利を収めた1946年3月における総選挙結果政党議席数人民党 191 ギリシャ国民党 17 国民連合 56 自由党 42 共産党 - その他 11 これらの勝利を受けて新たに生まれたツァルダリス首班とする人民党政府反動化左派への弾圧強化行い国王復帰をめぐる国民投票有利にようとしていた。結局ツァルダリス1948年3月予定していた国民投票1946年9月繰り上げたが、これは国王復帰国民68%が求めているという結果終わりギリシャ右傾向化が決まった。 『十二月事件以降民族人民解放軍ファシストとの戦いではなくイギリス相手との戦い交わしていたため、支持失い山間部追いやられ、その流れ必然化しつつあったが、共産党内部では権力闘争合法的に行うか武力闘争とするかは決定されておらず、さらに1945年5月共産党のニコス・ザハリアディスが収容所から解放されるとヴェルキザ協定受け入れた上で右派との妥協が公式路線とされた。しかし、これを民族解放戦線内の急進派マケドニア少数民族拒否北部山岳地帯結集して武力闘争選択していた。一方で国民投票国王復帰勝ち取ったツァルダリス政府軍大規模な増強進めていた。 これらの状況を受け、共産党武力闘争への傾向見せ始め1946年2月山岳地帯活動する共産ゲリラへの支援開始マケドニアテッサリアイピロスでの反政府活動強化、さらに1946年10月28日共産党民族人民解放軍指導者マルコス・ヴァフィアディスを指導者としてギリシャ民主軍(DSE)を設立1947年12月には共産党非合法化された。これらの状況悪化により、イギリスでは保守党から労働党政権移行パリ条約によってイギリス軍ギリシャ駐屯する意味を失ったことや財政危機瀕したから影響力失いこれまでギリシャ介入批判的であったが、『トルーマン・ドクトリン』でギリシャへの経済援助行っていたアメリカ合衆国介入両者和解最終的に閉ざされた。 1947年末、EDSアルバニア国境近くの町、コニツァを首都として臨時人民政府PDK、自由ギリシア臨時政府とも)の樹立宣言ユーゴスラビアブルガリアアルバニア共産主義国からの支援受けたが、ソ連はすでに合意された『パーセンテージ協定』の影響からか支援を行わなかった。このためアメリカ膨大な支援存在し制空権握っていた政府軍徐々に主導権取り戻しつつあった。この状況下で共産党指導者ザハリアディスはマルコス追放、自ら司令官に就任した。 政府軍圧力強まっていくにつれ、ギリシャ民主軍は徐々に追い詰められ支配下地域において人々強引に挑発したためギリシャ民主軍の兵士の4割がスラブ・マケドニア人と化しマケドニア人民族自決権宣言するにまで至ったが、これは戦間期行われた不人気な政策似通っていた上、政府マケドニアユーゴスラビア割譲共産党が行おうとしているとして宣伝共産党人気貶めることとなった。そのため、共産党はこれを否定したが、今度少数民族離反を招くこととなり、悪循環には歯止めがかからなかった。そしてギリシャ民主軍は政府による児童誘拐を防ぐという口実で、約2万5千から2万8千名児童近隣共産諸国送り込んだが、これを政府オスマン帝国時代の『デヴシルメキリスト教徒狩りだし、イェイニチェリにする徴用制度)』を引用して『ペゾマゾマ(子供狩り)』として、これを非難さらに人気を落とすこととなった。 さらに国際情勢悪化しており、1948年ユーゴスラビア共産党コミンフォルムより追放されるギリシャ共産党ソビエト共産党支持宣言このためユーゴスラビア支援の打ち切りギリシャ民主軍に対す国境封鎖実行した。そしてアメリカ支援をうけ、1949年1月第二次世界大戦時アルバニアイタリア軍圧倒したパパゴスが政府軍総司令官就任して指揮高まっていた政府軍前にギリシャ民主軍は劣勢強いられ1949年夏、グランモス、ヴィツィでの激戦敗退アルバニア退却することとなった。さらに、アメリカツァルダリス極右的政策共産勢力支持生んでいるとしてその改善求め自由主義者のテミストクリス・ソフリスが首相に就任、ソフリスは懐柔政策採用恩赦などを駆使して4,000名近いゲリラ武装解除成功した1949年10月ギリシャ共産党指導部戦闘一時中止宣言事実上内戦終わりを告げギリシャ民主軍の残存将兵東欧ソ連亡命生活を行うことを余儀なくされた。 なお、1911年イタリア・トルコ戦争においてイタリアとなっていたドデカネス諸島1947年ギリシャ領となり、ギリシャ第二次世界大戦領土得た数少ないヨーロッパ諸国1つとなった

※この「ギリシャ解放とその後」の解説は、「第二次世界大戦時のギリシャ」の解説の一部です。
「ギリシャ解放とその後」を含む「第二次世界大戦時のギリシャ」の記事については、「第二次世界大戦時のギリシャ」の概要を参照ください。

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