ギリシャ解放とその後
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「第二次世界大戦時のギリシャ」の記事における「ギリシャ解放とその後」の解説
詳細は「ギリシャ内戦」を参照 ウクライナより東進しているソビエト赤軍がバルカン半島のドイツ軍を孤立化させる恐れがあったため、1944年後半にドイツ軍はギリシャより撤退を開始していた。 1944年9月、民族人民解放軍が全土で一斉蜂起を行い、10月、イギリス軍のギリシャ上陸が行われ、11月4日、ドイツ軍が撤退するとパパンドレウは解放されたアテネに入り民族統一戦線内閣を編成、共産主義者も入閣することとなった。しかし、ドイツ占領下で崩壊した経済、寸断された交通網はギリシャに深刻な状況を作り出しており、すでに占領下で天文学的数字に達していたインフレはさらに膨れ上がることとなった。 解放された喜びもつかの間、パパンドレウとイギリスはゲリラを正規軍に置き換えるという問題に直面した。民族人民解放軍は男女合わせて約6万名存在、潜在的脅威と化していたが、すでに合意されているとされた手段に対し、共産主義者は軍の解体を拒絶、12月1日に民族解放戦線の閣僚は辞任、3日にはアテネにおいて抗議集会を開催した。デモ隊がシンダグマ広場へ差し掛かったとき、警官隊はこれを銃撃、死者15名を出すこととなった。 これを受けた民族人民解放軍はパパンドレウ政府の動揺を誘うために、アテネにおいてイギリス軍司令官スコビーの命令により民族人民解放軍の排除命令を受けたイギリス軍部隊と激しい市街戦を展開、さらにクリヴァス大佐率いる非正規部隊も民族人民解放軍攻撃に参加した。チャーチルと外務大臣アンソニー・イーデンはアテネへ向かったが、成果を挙げることはできなかった。そこでチャーチルはアテネ大主教ダマスキノスを摂政に置くことを国王ゲオルギオスに認めさせた。そして左派の懐柔を行い、平和裏に戦後体制を整えようとしていたパパンドレウは首相を辞任、共和派のプラスティラスが首相となり、民族解放戦線との停戦に乗り出した。そして、ギリシャでの共産勢力の封じ込めを決定していたイギリス政府はイギリス軍部隊をイタリアから派遣、困難を伴いながらもアテネでの優勢を勝ち取り、1945年1月半ば停戦にこぎつけたが、この事件は『十二月事件』と呼ばれ、ギリシャは内戦状態に突入した。 2月半ば、ヴェルキザ協定が締結され、民族人民解放軍は武装解除を承諾、その見返りに『政治犯罪』における特赦の約束と議会選挙を行う前に君主制の是非についての国民投票を行うことを勝ち取った。しかし、この協定もイギリスは守る気もなく、民族解放戦線、共産党への弾圧を強化、対敵協力者を積極的に登用して軍、警察の強化を行ったため、ヴェルキザ協定は事実上、無効化された。そして、アテネにおけるこの市街戦はさらなる戦闘を招く結果になっただけであり、反共産主義者は共産主義者に対して無差別な復讐を行い、事実上の白色テロが展開された。 1945年末、首相にはセミストクリス・ソフリスが就任していたが、1946年3月31日に選挙を行い、その後、国民投票を行うと宣言、これも以前同意されたヴェルキザ協定に反するものであった。そのため、共産党はこれに抗議、ニコス・ザハリアディス指導の元、投票を棄権した。そのため、選挙においては右派で人民党が主導権を握っていた右翼連合が圧倒的勝利を収めた。 1946年3月における総選挙結果政党議席数人民党 191 ギリシャ国民党 17 国民連合 56 自由党 42 共産党 - その他 11 これらの勝利を受けて新たに生まれたツァルダリスを首班とする人民党政府は反動化、左派への弾圧の強化を行い、国王復帰をめぐる国民投票を有利にしようとしていた。結局、ツァルダリスは1948年3月に予定していた国民投票を1946年9月に繰り上げたが、これは国王の復帰を国民の68%が求めているという結果に終わり、ギリシャの右傾向化が決まった。 『十二月事件』以降、民族人民解放軍はファシストとの戦いではなくイギリス相手との戦いを交わしていたため、支持を失い、山間部に追いやられ、その流れが必然と化しつつあったが、共産党の内部では権力闘争を合法的に行うか武力闘争とするかは決定されておらず、さらに1945年5月、共産党のニコス・ザハリアディスが収容所から解放されるとヴェルキザ協定を受け入れた上で右派との妥協が公式路線とされた。しかし、これを民族解放戦線内の急進派やマケドニアの少数民族は拒否、北部山岳地帯へ結集して武力闘争を選択していた。一方で、国民投票で国王復帰を勝ち取ったツァルダリスは政府軍の大規模な増強を進めていた。 これらの状況を受け、共産党は武力闘争への傾向を見せ始め、1946年2月、山岳地帯で活動する共産系ゲリラへの支援を開始、マケドニア、テッサリア、イピロスでの反政府活動を強化、さらに1946年10月28日、共産党は民族人民解放軍の指導者マルコス・ヴァフィアディスを指導者としてギリシャ民主軍(DSE)を設立、1947年12月には共産党が非合法化された。これらの状況の悪化により、イギリスでは保守党から労働党へ政権が移行、パリ条約によってイギリス軍がギリシャに駐屯する意味を失ったことや財政危機に瀕したから影響力を失い、これまでギリシャ介入に批判的であったが、『トルーマン・ドクトリン』でギリシャへの経済援助を行っていたアメリカ合衆国が介入、両者の和解が最終的に閉ざされた。 1947年末、EDSはアルバニア国境近くの町、コニツァを首都として臨時人民政府(PDK、自由ギリシア臨時政府とも)の樹立を宣言、ユーゴスラビア、ブルガリア、アルバニアの共産主義国からの支援を受けたが、ソ連はすでに合意された『パーセンテージ協定』の影響からか支援を行わなかった。このため、アメリカの膨大な支援が存在し、制空権を握っていた政府軍が徐々に主導権を取り戻しつつあった。この状況下で共産党指導者ザハリアディスはマルコスを追放、自ら司令官に就任した。 政府軍の圧力が強まっていくにつれ、ギリシャ民主軍は徐々に追い詰められ、支配下の地域において人々を強引に挑発したため、ギリシャ民主軍の兵士の4割がスラブ・マケドニア人と化し、マケドニア人の民族自決権を宣言するにまで至ったが、これは戦間期に行われた不人気な政策に似通っていた上、政府はマケドニアのユーゴスラビア割譲を共産党が行おうとしているとして宣伝、共産党の人気を貶めることとなった。そのため、共産党はこれを否定したが、今度は少数民族の離反を招くこととなり、悪循環には歯止めがかからなかった。そしてギリシャ民主軍は政府による児童誘拐を防ぐという口実で、約2万5千から2万8千名の児童を近隣の共産諸国へ送り込んだが、これを政府はオスマン帝国時代の『デヴシルメ(キリスト教徒を狩りだし、イェイニチェリにする徴用制度)』を引用して『ペゾマゾマ(子供狩り)』として、これを非難さらに人気を落とすこととなった。 さらに国際情勢も悪化しており、1948年、ユーゴスラビア共産党がコミンフォルムより追放されるとギリシャ共産党はソビエト共産党の支持を宣言、このため、ユーゴスラビアは支援の打ち切りとギリシャ民主軍に対する国境封鎖を実行した。そしてアメリカ支援をうけ、1949年1月、第二次世界大戦時、アルバニアでイタリア軍を圧倒したパパゴスが政府軍総司令官に就任して指揮が高まっていた政府軍の前にギリシャ民主軍は劣勢を強いられ、1949年夏、グランモス、ヴィツィでの激戦で敗退、アルバニアへ退却することとなった。さらに、アメリカはツァルダリスの極右的政策が共産勢力の支持を生んでいるとしてその改善を求め、自由主義者のテミストクリス・ソフリスが首相に就任、ソフリスは懐柔政策を採用、恩赦などを駆使して4,000名近いゲリラの武装解除に成功した。 1949年10月、ギリシャ共産党指導部は戦闘の一時中止を宣言、事実上、内戦は終わりを告げ、ギリシャ民主軍の残存将兵は東欧やソ連で亡命生活を行うことを余儀なくされた。 なお、1911年、イタリア・トルコ戦争においてイタリア領となっていたドデカネス諸島は1947年、ギリシャ領となり、ギリシャは第二次世界大戦で領土を得た、数少ないヨーロッパ諸国の1つとなった。
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