さらなる戦闘
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ベネデック大将は、正午に第8軍団の撤退を命じた。しかし、同命令がシュルツ少将に届いたのはその1時間後で、駅を占領したプロイセン軍に対する反撃を準備している時であった。シュルツ旅団はプロイセン軍を撃退するべく、駅の上手と右側に展開する。当初、兵は撤退命令に従おうとしなかった。彼らは朝の6時から配置に就き、戦友が2度の攻撃で消耗していく様子を見ていなければならなかったのである。撤退の実行を命じられるたび、彼らは「万歳」の叫びをもって答えた。11時45分、オーストリア側の全ての旅団に通常の倍のワインが配給される。彼らはすでに何日も定期的な補給を受けていなかったので、この酒には著しい効果があった。ドゥブノの森に残った第15連隊の最後の400名は、さらなる攻撃を敢行したほどである。彼らはプロイセン側のフュズィリーアを追撃し、上官の制止さえ振り切った。これらの兵のほとんどは命を落とすか捕虜となり、第15連隊は完全に殲滅された。
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さらなる戦闘
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「ロヴァニエミの戦い」、「ノルトリヒト作戦(英語版)」、および「ペツァモ=キルケネス攻勢(英語版)」も参照 連合国の対独攻撃が続く中、第20山岳軍と国防軍最高司令部はラップランドとリンゲン・フィヨルドから東のノルウェー北部に陣地を維持し続けることが危険であると考え、撤退を準備した。長い遅滞の後、ヒトラーは1944年10月4日にこの考えを受け入れ、1944年10月6日には撤退作戦が「ノルトリヒト作戦(英語版)」と名付けられた。ビルケ作戦のときは全ての軍需品を運び出しつつラップランド南部から北部にゆるやかに撤退したが、ノルトリヒト作戦では敵軍に妨害されつつ、ノルウェーのリンゲン・フィヨルドへの迅速な、そして整然とした撤退が求められた。 ドイツ軍が撤退するとともに、動きがラップランドの主要道路3本付近に限られるようになった。この後の行軍は下記のようなパターンの繰り返しとなった。すなわち、進軍してきたフィンランド部隊は道路網が破壊されていたため大砲などの大型兵器を運べず、ドイツ軍の後衛に遭遇すると歩行でその両翼を迂回しようとした。しかし、フィンランドのライフルマン(英語版)[要リンク修正]が密林や沼地をゆっくりと進んでも、自動車を配備されたドイツ部隊は運転して離れるだけでフィンランド軍をまくことができた。 フィンランド軍はドイツ軍の追撃を開始した。第11師団がトルニオから北へ、トルネ川沿岸にある道にそって前進した一方、第3師団はケミからロヴァニエミへ前進した。第6師団と機甲師団(英語版)はプダスヤルヴィで合流した後、北へ前進し始め、まずラヌア(英語版)、続いてロヴァニエミへ前進した。国境猟兵旅団は各地で沿岸警備隊を配置しつつ東部国境に沿って進んだ。道路がドイツ軍に破壊されたため、フィンランド軍は修理工事に従事しなければならず、第15旅団の全員が道路工事を進めたときもあった。ケミからロヴァニエミへ進んだフィンランド軍は徒歩で進んだため自動車化されたドイツ軍部隊に全く追いつかず、実質的な戦闘は起きなかった。一方、ラヌア(英語版)からロヴァニエミへ向かったフィンランド軍はユリマーの戦い(フィンランド語版)、キヴィタイパレーンの戦い(フィンランド語版)、ロヴァニエミの戦いなどいくつかの小規模な戦闘を行った。ロヴァニエミから先に進んだフィンランド軍はタンカヴァーラ(英語版)でドイツ軍の強く要塞化された陣地に直面した。一方、トルネ川とムオニオ川(英語版)沿岸にある道路ではドイツ軍の撤退が順調に進んだためフィンランド第11師団がムオニオの村に着くまで戦闘が全く起きなかった。 10月7日、フィンランド軍がドイツの陣地に関する詳細な文書を手に入れて攻撃すると、ドイツ軍はやむなく遅延戦術をとった。両軍の戦力が数的でも同程度であり、フィンランド軍が重火器に欠き、長い行軍に疲労していたため、フィンランドの猟兵旅団はドイツの第218山岳連隊が10月9日に撤退の許可を得るまでにそれを閉じ込めることに失敗した。10月13日、木ヴィタイヴァルでは逆にフィンランドの第33歩兵連隊が不利に陥り、ドイツの第218山岳連隊が撤退しなければ大損害を被ったところであった。ドイツ軍の撤退によりフィンランド軍はドイツ軍のうち遅れた1個大隊を包囲することができたが、ドイツの第218山岳連隊が戻ってきてその大隊を救出した。ロヴァニエミ近郊に真っ先に到着したフィンランド軍の部隊は10月14日にラヌア(英語版)から進軍した猟兵旅団の部隊だった。フィンランド軍がケミ川にかかっていた最後の無傷な橋を占領する試みはドイツ軍に撃退され、1944年10月16日にはドイツ軍が完全に破壊された町から撤退してフィンランド軍に渡された。 ここにフィンランド軍の武装解除と補給の困難さが影響力を発揮してしまった。例えば、タンカヴァーラの戦い(フィンランド語版)ではフィンランド猟兵旅団のわずか4個大隊がドイツ第169歩兵師団の12個大隊をあらかじめ準備された防御陣地から追い出そうとして失敗した。フィンランド軍は10月26日にその一帯に到着したが、足場を確保したのは11月1日にドイツ軍が北へ撤退したときだった。10月26日のムオニオではドイツのエッシュ戦闘団(Esch)4個大隊と第6SS山岳師団「ノルト」が数的でも大砲などの装備でも優勢だったため、フィンランド軍第8と第50歩兵連隊は両翼を迂回することに成功しても戦闘自体では失敗した。フィンランド軍の計画は第6SS山岳師団がキッティラからムオニオに進軍することを防いで、それを閉じ込めようとしたが、エッシュ戦闘団の遅滞戦術と道路網の破壊により、フィンランド軍が山岳師団より先にムオニオに到着することはできなかった。
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