さらなる戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:51 UTC 版)
「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の記事における「さらなる戦い」の解説
しかし、ザクセンの降伏は終わりではなく、始まりであった。両者の戦いのあいだ、ザクセン貴族と南ドイツ諸侯は連絡をとりあっており、さらに南ドイツ諸侯とローマ教皇庁は気脈を通じていた。ザクセン降伏の同年、ローマ教皇グレゴリウス7世はローマの司教会議で皇帝顧問を務める5人の司教を聖職売買の罪状によって破門に伏し、翌1076年1月8日、ハインリヒ4世にむけて今後は教皇に従うよう書簡を送った。同1月24日、ハインリヒ4世はヴォルムスで国会・宗教会議を開き、トスカーナ女伯マティルデとの不倫の醜聞をもとにグレゴリウス7世の廃位を決議させる。それに対し、教皇は2月22日ハインリヒ4世を破門に処した。こうして1076年の叙任権闘争は、その年のハインリヒ4世当人に世の耳目を集めさせることとなった。 グレゴリウスの廃位に関しては、ドイツと北イタリアの司教たちは国王ハインリヒ4世を支持した。しかし、南ドイツの3大公は国王に反抗し、一旦は王権に服したオットー・フォン・ノルトハイムもザクセン貴族を率いてこれに呼応した。破門により、ハインリヒ4世の王権はドイツでの求心力を失った。 1077年1月、ハインリヒ4世はドイツを脱出し、カノッサに直接教皇を訪ね、破門を解くことに成功した(カノッサの屈辱)。一旦はこれにより、ハインリヒ4世は戦力を回復してドイツ平定に乗り出した。1080年のグレゴリウス7世による再度のハインリヒ4世の破門は効力をともなわなかった。ハインリヒ4世はイタリアに攻め込んでグレゴリウス7世を捕らえ、対立教皇クレメンス3世を擁立して戴冠式を行った。グレゴリウス7世はロベルト・イル・グイスカルドに救出されてサレルノへ逃れるが、ローマへ戻れず失意のうちに没した。ドイツでは相次いで立った2人の対立王がハインリヒ4世に降伏して1091年、ドイツは彼の手によって再び統一された。しかし、イタリア半島北部のロンバルディアの諸都市は皇帝に反対し、最後までその攻撃に屈しなかった。 しかし諸侯を味方につけて皇帝ハインリヒ4世に反旗を翻し、軟禁さえおこなった彼の息子ローマ王(ハインリヒ5世)さえ、ザクセンとは戦わなければならなかった。1106年8月、ハインリヒ4世は失意の内に56歳で死去、同年、ザクセン大公マグヌスも死亡、マグヌスには後継者がいなかったため、ビルング家は断絶した。ハインリヒ5世は、即位早々にザクセン貴族の有力者のズップリンブルク家のロタールをザクセン公に任じた。 1110年、ハインリヒ5世はザクセンに遠征、ボヘミアにも支配権を再び確立し、翌1111年に帝冠を受けて神聖ローマ皇帝となった。しかし、やがてロタールと対立、1115年にヴェルフェスホルツの戦いでロタールに敗北、ザクセンの自立がいっそう進んだ。1119年には教皇カリストゥス2世に破門を宣言され、ザクセン貴族やマインツ大司教アダルベルトが離反した。1122年、ヴォルムス協約によって叙任権闘争を一応は決着させたハインリヒ5世も後継者のいないまま1125年に死去。ザーリアー朝最後の皇帝となった。 つづいて皇帝となったのはザクセン大公ロタール(ロタール3世)であった。
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