さらなる意見の相違
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:43 UTC 版)
プラハの騒ぎは大騒動となり、ローマ教会はそれを不快と受け止めた。教皇代理で大司教のアルビックは、フスに対して教書への反対を止めるように説得を試みた。また、ヴァーツラフ4世は両派を和解させようと試みたが、失敗した。 その間にプラハの聖職者達は、ミヒャエル・デ・カウズィズを通じて、教皇に不平を訴えた。教皇は聖アンジェロ城の枢機卿に対しフスへの弾圧を命じた。枢機卿の下した罰則により、フスは大司教のもとに拘留され、フスの教会は破壊された。フスとその支持者への対応はさらに厳しくなり、「教皇ではなくイエス・キリストこそが至上の審判である」というようなフス派の主張を抑える対抗策も厳しくなった。これら厳しい対応により人々の興奮がさらに高まったので、沈静化のためヴァーツラフ4世はフスをプラハから遠ざけたが、フスがいなくなってもフス支持者の興奮は続いた。 ヴァーツラフ4世は、自国が異端として悪評を受けていることに悩みながらも、対立する両派を和解させようと努めた。1412年に国王は王国の首脳の答申を受けて、同年2月2日にチェスキー・ブロド(Český Brod)における宗教会議を召集した。宗教会議はプラハの大司教宮殿で実現し、教会内の抗争を治めるための諸発議が検討された。会議にはフス本人の参加は認められなかったが、フスは要求を伝え、ボヘミアは教会問題に関して他国と同じ自由をもつべきであり、何を認めて何を認めないかはボヘミア自身が決定すべきと訴えた。これは総じてウィクリフの教義である。両派の合意は得られなかった。フスは「たとえ火あぶりの杭の前に立たされても、私は決して神学部の忠告を受け入れないだろう」と書いている。 この宗教会議の成果は少なかったが、ヴァーツラフ4世は両派の和解の継続を命じた。大学教授達は、フスとその支援者に「彼らの教会の概念」を是認するよう要求し、教皇は教会の頭であり、枢機卿は教会の胴体であり、信徒は教会の全ての規制に従わなければならないとした。フスは、それは教会を教皇と枢機卿だけのものにする考え方だとして、強硬に抗議した。一方でフス派は相手側の主張も受け入れるよう努力し、「ローマ教会に従わなければならない」という主張に対して、「敬虔なキリスト教徒として恥じない限り」の一文を付け加えた。しかし、スタニスラフ・ツェ・ツノイマとシュテファン・パレチはこのフス派の書き足しに抗議し、会議から退席した。王は2人を追放し、代わりの委員を立てた。 これら議論の途中で、フスが教会を論じた『教会論』(De ecclesia)が何度も引用され、賛否両論の意見を浴びた。この著作は、最初の10章まではウィクリフの同名の著作の要約で、続く章では同じくウィクリフの著作(De potentate pape)の摘要を受け継ぐものである。ウィクリフは「教会は聖職者だけで構成される」という一般的な考えに対抗して著作を記したが、フスも同じ立場に立たされていた。フスは、論文をオーストリア近くのコジー・フラーデク(チェコ語版)(ツィーゲンブルク Ziegenburg)にある彼の庇護者の居城で著した。原稿はプラハに送られ、ベツレヘム礼拝堂において大衆の前で発表され、これに対して、スタニスラフ・ツェ・ツノイマとシュテファン・パレチとが同名の論文を著して対抗した。 この2名の猛烈な敵手がプラハを去った後は、論文の発表の場はフスの支持者だけで埋め尽くされた。 フスは、論文を書くとともにコジー・フラーデクの近郊で説教をした。 ボヘミアのウィクリフ主義は、ポーランド・ハンガリー・クロアチア・オーストリアに伝播したが、このときには教皇の宮殿で特別な動きは無かった。しかし、1413年にローマで評議会が開かれ、ウィクリフの著作は異端とされて、それらを燃やす命令が下った。
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