ガソリン自動車メーカー時代
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「プリンス自動車工業」の記事における「ガソリン自動車メーカー時代」の解説
1952年 当初からガソリン車として開発した初めてのモデルである1500cc車「AISH型乗用車」「AFTF型トラック」を発売。車名は当初「たま」と予定されていたが、当時の皇太子明仁親王が同年に立太子礼を行うことから、これを記念して「プリンス」と命名。会長・石橋の案とされ、響きの良さを狙った外国語車名採用の早い例。3月、ブリヂストン本社ビルにて展示発表会をおこなう。11月には、社名もプリンス自動車工業に変更。同年、プリンス自動車販売が設立される。新開発の富士精密FG4Aエンジンは当時日本の小型乗用車用エンジン中最大の1500cc45PSで、形式名は「富士精密のガソリンエンジン4気筒型」の意を略したもの。石橋正二郎が以前から所有していた自家用車・プジョー202の1200ccエンジンを参考に拡大設計したOHVエンジンであるが、以後10年以上に渡り大改良を受けつつ、「FGA」→「GA4」→「G-1」と名称を変えながら、プリンスの主力エンジンとなった。 AISH乗用車(プリンス・セダン)は4速シンクロメッシュ・ギアボックスやコラムシフト、油圧ブレーキや低床シャーシを備え、1952年当時もっとも進歩的かつ最大の日本製乗用車であった。もっとも前輪は固定軸であり、再び独立式となるのは1956年である。最初の試作車の完成は先行したトラックよりも遅く1952年2月15日だったが、耐久試験も十分に行われないままわずか8日後には運輸省の公式試験を受け、翌月3月7日には発表・発売に踏み切った(ここまで無謀な新車発売はほとんど他例がない)。しかも試作2号車は東京工業大学に公用車として販売してしまった。車格や排気量が輸入車並みに大きいことから市場の注目を集めたが、耐久試験なども十分に為されないまま量産に突入したため、ユーザー・生産の両面でトラブルの連続となり、乗用車メーカーとしての安定した操業にしばし時間を費やすことになった。一方、すでに1951年11月に試作完成していた1.2t積みトラックは、余裕を持った耐久性重視の設計によって当時の市場で好評を得、主力製品となった。 1954年 2月、営業強化のため、東京営業所を母体に販売会社のプリンス自動車販売(プリンス自販)を設立。4月、懸案であったプリンス自動車工業と富士精密工業の合併が実現、存続社名を富士精密工業とする。10月、東京都港区三田にプリンス自販本社ビル完成。 1955年 同年から三鷹工場での設備合理化計画を開始、合理的な量産体制の構築で、大幅な生産コスト低下や品質向上を図る。同年、日本の小型トラックでも先駆的なフル・キャブオーバー型車となった「AKTG-1型」を発売。荷台を大幅に拡大できるメリットがあり、他社に先鞭を付ける。以降も販売の主力は常にトラック・バンであった。 1955年 工学博士・糸川英夫とともに日本初のペンシルロケットを開発、この固体燃料ロケットの技術は日産からIHI(IHIエアロスペース)へと引き継がれ、現在の固体燃料ロケットの基礎となった。 1956年 プリンス・セダンのビッグマイナーチェンジ型としてAMSH型乗用車を発表。前輪にウィッシュボーン式独立懸架を採用し、競合メーカーに対抗する。 1957年 初代スカイライン発売。シャーシ設計を刷新、日本で初めて後輪懸架にド・ディオン・アクスルを採用した。同じ頃、600ccクラスの空冷式リアエンジン小型大衆車「DPSK型」の開発を進め、1959年には試作車を完成させたが、資金事情から量産化は頓挫した。 1959年 初代グロリア発売(1900cc。戦後の日本製乗用車としては初の普通車(3ナンバー)規格乗用車となる。なお1960年に5ナンバー車(小型乗用車)の規格が1500cc以下から2000cc以下に変更されたため、以後はグロリアも5ナンバーとなる) 1960年 「自動車事業5か年計画」で1964年完了を目標とした200億円以上(当時)の大規模設備投資を開始。 1961年 2月、社名を「プリンス自動車工業」に変更。3月、東京都下で村山工場の建設着工。12月、自動車以外のミシンなどを主力としていた浜松工場を子会社のリズムフレンド製造として分社化。旧・富士精密系の航空産業部門は残存したが、すでに収益の9割以上がこの時点で自動車にシフトしていた。 1962年 イタリアのジョヴァンニ・ミケロッティにデザインを依頼した「スカイライン・スポーツ」を発売。イタリア人デザイナーへのデザイン発注は日本でも極めて早い時期の試み。商業的には失敗で60台弱がハンドメイドされるに留まった。 10月、村山工場操業開始。テストコースをも備えた大工場で、以後の主力工場となる。9月、プリンス自販は三田の本社ビルを8階建てに改築、販促強化を図る。 1963年 前年に発売されていた二代目グロリア(S40型)に、直列6気筒SOHCエンジン「G7型」(2000cc、105PS)を搭載した「グロリア・スーパー6」を追加。日本製の本格的な量産乗用車としては初のSOHCエンジン搭載車。以後競合他社も追随し、日本車においてSOHC機構の普及するきっかけとなる。 1964年 5月3日、鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリ「GT-2」クラスで、プリンス・ワークスチームの「スカイラインGT」が上位入賞。以後、日産合併後に至るまでの「スカイライン伝説」の端緒となり、モータースポーツでのイメージアップに貢献。同年10月からエンジン生産は村山工場に集約、三鷹工場はドライブトレーン周りの生産に移行した。 1965年 5月、日産自動車との合併計画を発表。当時の通商産業省の自動車業界再編計画と、プリンス自体の経営不振が背景にあった。本体のプリンス自動車工業は黒字経営だったが、これは販売部門であるプリンス自販に在庫を強制引き取りさせていたことによるもので、自販は値引きによる在庫処分を強いられ、慢性赤字経営に陥っていた。また、会長の石橋正二郎がブリヂストンの経営者でもあったため、自動車メーカー経営が他社へのタイヤ納入への障害となりかねないゆえの苦渋の選択であったともいわれている。この水面下交渉では、当時の通産大臣であった桜内義雄自ら、会長の石橋正二郎と日産社長の川又克二および取引銀行間の調整に奔走した。 1966年 8月1日、日産自動車と合併(日産自動車による実質的な吸収合併)。
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