桶狭間の戦い 合戦の実態をめぐる議論

桶狭間の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 06:38 UTC 版)

合戦の実態をめぐる議論

桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、様々な議論を呼んでいる。

今川軍の総兵力

今川氏には家臣団編成の実態を知る分限帳・軍役帳が伝存しておらず動員可能兵力を想定することは困難であるが、『信長公記』においては四万五千小瀬甫庵の『信長記』には数万騎と記し、そのほか後代の編纂資料においては『甲陽軍鑑』には二万余、『武功夜話』には三万有余、『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』などには四万余、『改正三河後風土記』は『信長公記』に基づき四万五千、『絵本太閤記』には五万余といった数字を記している。

近年まで影響力があったのは、第二次世界大戦前の帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』にある25,000である。小和田哲男は義元領地を石高換算で90万から100万石と見て1万石250人の兵力動員からやはり25,000だとする[37]。近年には太田満明、橋場日月など、太閤検地による近世初頭の今川領の総石高を元に、二万五千でも多すぎると異論を唱える論者もいる。

駿河遠江三河の3国のほか、尾張の南半分を押さえている今川は、尾張の北半分を押さえる織田とは兵力差があった。尾張の国力を信長の動員力ではなく、信長が、同族を平定し、自らが擁立した尾張守護・斯波義銀を追放して尾張国の国主となったのは、桶狭間の戦いの前年に過ぎない。本合戦で信長に従って戦ったのは従来からの家臣たちであり、尾張統一の過程で信長家臣に組み込まれた者や国人・豪族たちは戦況を様子見するか、服部党の服部友貞のように今川方についた。このことからも、信長の動員力は非常に限られたものだった。

武田・北条の援軍は加勢していたか

今川義元は武田信玄・北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結んでおり、軍事同盟である以上、義元の対織田戦に武田氏や北条氏がどう対応していたのか?という問題が浮上してくる。その中で丸島和洋は『甲陽軍鑑』における桶狭間の戦いの記述が頻出詳細であることに注目している。加えて、桶狭間の戦いから1か月後の6月13日付で武田信玄が岡部元信に書状を送り、その武勇を称えると同時に氏真に対する「侫人の讒言」があることを憂慮する内容となっていることを指摘し、桶狭間の戦い直後の今川家中で武田氏に対する不満が高まっていた(氏真に信玄への不満を述べる者がいた)のではないかとしている。丸島は武田氏が(恐らく北条氏も)今川軍に援軍を出すなどの支援行為を行っていたものの、桶狭間の戦いにおける武田氏の援軍の働きぶりに戦後の今川家中において不満や不信感を抱かれたのではないか、と推測している[38]

義元の尾張侵攻の理由

甫庵信長記』以来、長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。幕末編纂の軍記ものの栗原信充の『重修真書太閤記』(嘉永5年:1852年安政5年:1858年)にも、義元上洛の記述が見える[39]。 

歴史家高柳光壽がこれに疑問を示し、今川氏は織田氏と三河を巡り争い続けて尾張も視野に入れ、義元が、今川家家督を継承してから三河で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げて、ついに三河を占領できたので、更に尾張の支配地域を大きくするため侵攻したと、指摘した[40]

尾張は今川一門今川仲秋(尾張守護)の守護任国であり、末裔の今川那古野氏(室町幕府奉公衆の今川氏)が那古野城を構えていた。義元の末弟である今川氏豊[注釈 5]は、この今川一門の家の血縁が絶えたので、送り込まれ家を継いだ。那古野城は謀略で織田に奪われ、そこで信長は生まれた[42]

義元の置かれていた状況は後の織田信長などとは大きく異なるし、信長以前には戦国大名が天下人を意識したり目指していない[43]。義元の永禄2年(1559年)3月12日付の出陣準備の文書「戦場掟書」にも「上洛」の文字はない[44]。また、義元には、上洛するための京都の公家への事前の働きかけや、美濃国の斎藤家や近江国の六角家などへの折衝が無い[45]

信長は後に足利将軍家足利義昭を奉じて京周辺と畿内の支配や地方大名の紛争を調停する室町幕府の伝統的な連合政権を形作った。信長本人が天下人となるのは義昭と紛争になり追放してからである。また、甲斐の武田信玄は、元亀年間に信長・徳川家康と敵対し、反信長勢力を迎合した将軍義昭に呼応して大規模な遠江・三河侵攻を行っている(西上作戦)。西上作戦は従来から上洛意図の有無が議論され、近年は前段階の駿河今川領国侵攻も含めて武田氏の軍事行動が中央の政治動向と連動したものであることが指摘されている[46]。だが、信長以降である。

当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。領土紛争の一環としてこの二城を救出してそれを基に那古野城とその周辺まで奪取する構想があったとする[47]

久保田昌希は今川氏発給文書を分析して、東三河の密度の濃さに比べて、西三河は密度が薄いとして、永禄3年(1560年)の出陣は西三河の確保が目的とする[48]

埋め立てが進んだ現代に比べて当時は海が内陸に食い込んでおり、大高付近は船着き場でもあった。今川家は尾張での領土の確保・拡大だけでなく、東国と西国を結ぶ交易ルートであった伊勢湾の支配を巡り織田家と累代抗争していたとする研究も目立つ[49][50]

大石泰史は上洛説は成立し難いとした上で、非上洛説を以下の6つに分類している。

  1. 尾張攻撃説
  2. 伊勢・志摩制圧志向説
  3. 尾張方面領土拡張説
  4. 旧名古屋今川領奪還・回復説
  5. 鳴海城・大高城・沓掛城封鎖解除・確保志向説
  6. 三河・尾張国境の安定化説

その上で、大石は2・3・4は裏付けとなる史料が不足しているために安易に肯定は出来ず、1・5・6はいずれも関連づけが出来るために敢えて1つに絞る必要は無い、との見解を述べている[20]

また小林正信は義元の出兵を古河公方を推戴した三国同盟による室町幕府に対する挑戦とであったと捉え、上洛目的説を改めて提唱した。将軍・足利義輝を支持する長尾景虎が信長に続いて1559年に上洛したことにより牽制された義元の出兵は1年遅れ、迎撃準備を整えた信長により敗死。その後の景虎による関東出兵も、三国同盟に対する幕府の報復であると位置づけた[51]

合戦場と奇襲の問題

桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において議論となっている問題がある。

桶狭間の戦いの経緯については太田牛一信長公記』、または『信長公記』を脚色した小瀬甫庵信長記』において具体的に著述されているが、双方の記述には多くの相違が見られる。一般的には『信長公記』が記録性が強く、『信長記』は甫庵自身の史観による改竄が見られ史料価値は低い[52]

合戦場

「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。延享2年(1745年)の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年(1781年)の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されている。

一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村の辺りにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「桶狭間山」が16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではない。 桶狭間は慶長13年(1608年)検地で村名となっている[53]。なお小瀬甫庵『甫庵信長記』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されていて、江戸時代に出版されたので広がったが、脚色であり史料的には信頼性がなくなっている[54]。田楽狭間は、大字で、その初見は寛永元年(1624年)山澄英龍『桶狭合戦記』でそれ以前にはない[53]

  • 藤本正行 : 一地点の丘ではなく、中嶋砦の東側の一帯の丘陵を指す[55]
  • 小和田哲男 : 「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7メートルの地点と特定し頂上に本陣があったとする[56]。この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる。織田軍2,000人と今川軍5,000人がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市の方で戦死したのではないかとしている。
  • 小島廣次 : 上記の豊明市の古戦場の南方にある標高64.7メートル丘の北側の高地との間の鞍部に本陣があった[53]
  • 磯田道史 : 入手した『天保11年道中日記』(1840年。甲斐国八代郡南田中村(現・山梨県笛吹市一宮町)田中伝左衛門著)には「桶はざま。往来より左の方、半丁(54m)ばかり奥。今川義元公戦死の場所ならびに七将の墓、有」と記されている。また磯田によれば、明和8年(1771年)桶狭間古戦場に「七石表」という今川義元らの石碑が建立され、それを見たのではないかという[57]

戦闘の様相

「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の4つの説にまとめることができる。

  1. 迂回攻撃説
    善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。
  2. 正面攻撃説
    善照寺砦を出た織田信長は、今川軍在陣を見て善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。折からの豪雨の後で桶狭間山にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の前軍は織田軍の突然の正面突撃により突破され、その乱戦状態で義元の本陣になだれ込み義元は旗本に囲まれ退却。だが、残された輿により信長が義元を発見し追撃を命令し、ついに義元は討ち取られた[58]
  3. 別動隊説
    作家の橋場日月は、上記の両説を加味した上で新説として「正面攻撃+別働隊による背後からの奇襲」説を唱えている。その根拠として『信長公記』沓掛峠の松の本の楠の強風による倒木記述を、沓掛城の北北東で中嶋砦から6キロメートル離れた現・豊明市沓掛町松本で織田軍が別動隊として展開していたとする[59]。江畑英郷は、2009年刊行の『桶狭間 神軍・信長の戦略と実像』(カナリア書房)で、織田軍が予め押さえていた沓掛峠方面からの別動隊に襲われた今川軍兵站部隊が本陣に潰走し、その混乱に巻き込まれて義元が討たれたとの見解を示している。岡部元信が撤退時に水野信近を討ったのは、いったん今川方につきながら裏切ったことへの報復と推測している。
  4. 乱取り状態急襲説
    黒田日出男は、『甲陽軍鑑』で、義元の軍が乱取りで散開して、義元自身は、現地の三河の僧侶から差し入れられた酒や食料で僧侶も参加し酒宴を始めていたところを急襲されたとあり、これを評価する説を唱えている[60]
ただし、『甲陽軍鑑』では周辺状況が異なり地理や開戦経緯や戦場経過も知らない伝聞による記載である。黒田説は、『甲陽軍鑑』には、鷲津・丸根砦陥落も佐々・千秋戦完勝の事実も記載がないのに、他の記述を付会させて説を組み立てていると批判されている。再評価されている『甲陽軍鑑』でも、他国の事は史料にならない部分があると反論されている[61]

「迂回攻撃説」は江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が多い。

「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根砦、鷲津砦を陥落させて勝利に奢って油断していたとされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。

これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将達の1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。例えば大久保忠教の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。

また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長が予めよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱が勲功第一とされたという、『甫庵信長記』等における逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとして取り上げられることがあった。

しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説によれば、信長が予め情報を収集していたという見解にも無理がある。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して低地の守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所は補足できていない。何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家老に向かって、「敵は夜間行軍し兵糧搬入後に丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずである」という主旨の重臣への訓示をしている。

この記述によれば、信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、夜間行軍し、大高城に兵糧搬入してそのまま出撃し丸根、鷲津砦を攻撃した直後の敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけで、義元にも触れず存在を知らない、ということである。

『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ信長は義元の所在地や行動を知らず織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。

今川軍は、元々の今川方の領地で伊勢湾の潮の干満で満ち潮で来援しにくい時間に攻撃開始するなど土地勘があり[62]、それに信長方だった山口左馬助の寝返り以来、さらに地形に詳しい者の助言で、布陣と占領もうまくいっていた。しかし、通常明け方の戦闘開始が戦国時代の戦の通例だが、午後2時という常識外の時間に信長軍が出現し、低地から攻撃を仕掛けてきた。これに、義元を総大将として抱えていた今川軍本陣が急変に対応できず防戦するより旗本に守られつつ退却して、残された輿を見た信長に義元の存在を気付かれ、信長軍の馬廻衆の追撃と重ねての攻撃に討ち取られたということになる[63][64]

以上により、信長の義元への本陣攻撃とは義元を狙って地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、義元がいる本陣だったのも偶然で、偶発的に義元本陣突撃になって討ち取り、戦国大名が戦場で討死した稀な事例となり、その結果、今川軍が総崩れし追撃され大敗した、という解釈になる[65]。このように『信長公記』を全面的に依拠する正面攻撃説によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた幸運による成功ということになる[66]

また、現在でもよく分かっていないことであるが、『信長公記』によると、信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの足軽隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けて敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。藤本正行は、当時の合戦ではよくあったことだが、単に戦場に到着した信長の前で手柄を上げるために独自の判断で抜け駆けを行ったとの説である[67]。この部隊の中に若き日の前田利家が同輩を切り蓄電し出仕停止処分を受けていたが、この抜け駆けに参戦し、敵の首を取り信長に披露した(前田家家譜)[68]

簗田出羽守の手柄

上記の通り、簗田出羽守の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問が持たれている。また、最初から奇襲作戦を行うとすればあらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。

しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗者である今川家にはこの前後の感状が残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。

簗田出羽守の勲功第一という表現に比較的近いものは、小瀬甫庵の『信長記』や『武家事紀』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分であり、勲功第一というのは桶狭間の戦いの後、それまで今川氏の領有であった沓掛を簗田出羽守が拝領したという事実から、後に行われた小説的解釈である。

ほかに、簗田出羽守が合戦前に偵察や地形の調査を行っていたとも言われているが(『武功夜話』など)、確実なものとはされていない。現代では武岡淳彦が軍事研究家の観点から詳細に構想している[69]ほか、小和田哲男が沓掛の土豪である簗田出羽守が地形などを把握していた可能性に言及している[56]が、これらにも史料的な裏づけはなく、簗田氏の本領は九坪であるとする説もある[70]。武田鏡村は「合戦の際には双方にいい顔をするのが地域小土豪の知恵」とし、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として簗田の名を出している[71]

史料に残る事実は、桶狭間の戦い前までは今川氏領有の沓掛が、この戦いの後に簗田氏に拝領され、その領地になったということだけである。沓掛を拝領するような手柄を立てたことは確かであるが、それがどのような手柄なのかはわかっていない。




注釈

  1. ^ 代表的なものとして、安祥松平家と緒川水野家の婚姻同盟の破綻を緒川水野家と織田氏の同盟によるものではなく安祥松平家の内紛に伴う外交方針の転換に求める説[7]、織田信秀が天文16年(1547年)に岡崎城を攻めて松平広忠を降伏させていたとする説[8]、この説を受けて松平竹千代(徳川家康)が戸田康光によって織田氏に売られたという逸話は事実ではなく、実際には広忠が降伏の証として竹千代を織田氏への人質として差し出したとする説[9]などがある。
  2. ^ 大石泰史によれば、義元が輿に乗っていたのは尾張では輿に乗れる資格があるのは守護の斯波氏のみであり、織田氏との家格の違いを視覚的に示すことで尾張の人々に威圧を与えて抵抗意欲を削ぐための威勢を示したという[20]
  3. ^ 近年、丸島和洋は元康の岡崎城帰還は織田軍の西三河侵攻に備えた今川氏真の方針に沿ったものとする説を出している[36]
  4. ^ 前述の丸島説では、元康は当初は岡崎城で今川軍の一員として織田軍と対峙していたが、氏真が三河救援よりも上杉謙信に攻められた小田原城の救援を優先したことで、無援状態になった元康が織田氏と結んで領国の保持を図ったとしている[36]
  5. ^ 近年の黒田基樹の研究では、今川氏親の子は四男四女しか裏付けが取れず、氏豊は義元の兄弟ではないとしている[41]

出典

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