古代ギリシア 鉄器時代

古代ギリシア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 22:49 UTC 版)

鉄器時代

前1200年のカタストロフの襲来でミケーネにおいて文明は崩壊し、その後ポリスが成立するまでの時代は文字資料もなく、また海外との交渉も低調で、さらには考古学的証拠も乏しいため、俗に「暗黒時代」と呼ばれる。しかし、ギリシアで文化がすべて死に絶えたわけではなく、ミケーネ土器を基にして進化した幾何学文様土器が作成され、前900年から前700年を俗に「幾何学文様期」と呼ぶ。そのほか、後に重要な地位を占めるアテネなどのポリスも元を辿るとミケーネ時代にその端を発したものがあり、ミケーネ時代から暗黒時代を経ていることも注目されている[19]

前8世紀になるとギリシア各地に都市国家であるポリスが徐々に生まれて行く。ミケーネ時代の叙事詩であるホメロスの作品が流行し、これはギリシア人の民族意識と倫理規範のよりどころとなった[20]。これらの作品はフェニキア人との接触によってアルファベットが成立したことが重要要因であるが、それ以上にそのアルファベットの起源となったフェニキア文字をもたらしたフェニキア人との接触が重要な意味を持っていた。すなわち、ギリシア人としてのアイデンティティを構築したことである。このホメロスの叙事詩はギリシア人らが自らの民族的同一性を再確認することを支えたと考えられ、アルファベットの成立を商業的理由よりもホメロスの叙事詩を文字であらわすことであったとする説も存在する[21]。このホメロスの叙事詩はギリシア人らの聖典となり、行動規範の元となった。そして、この叙事詩の流行と英雄祭祀が同時に流行したことでギリシア人らが祖先の偉業をたたえるようになって行った。[22]

この様々な進化を遂げた前8世紀をルネサンスの時代と呼ぶことがあるが、これは近世のルネサンスと同じように「過去」の文化を文字通り「再生」したことを意味している。それまで経済的な利用をしていた線文字Bからアルファベットへ、支配者の君臨する宮殿から神々の神殿へ、都市もメガロンのような城塞ではなく広場(アゴラ)を中心としたものへとの進化を遂げ、その後のポリスの時代へとつながってゆく[23]

古代ギリシアにおいてはエウボイア島においていち早くポリスが形成された。エウボイアでは東方と交易をおこなっていたことがエウボイア産の土器の出土で判明しているが、その経済活動がカルキスエレトリアというポリスの成立を産み、両ポリスがレラントス平野で周辺諸ポリスを巻き込んだレラントス戦争はギリシアにおける最初の国際的な陸戦であったと想像されている[24]。また、サロニア島のポリスでも商業活動を積極に行うことで繁栄し、ソストラトスという商人がヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)にまで到達するまでの交易をおこなっており、さらには古代ギリシアにおいてはじめて貨幣を発行したのも同島のアイギナであった[25]

さらにキクラデス諸島においてはイオニア人ケオスシフノスパロスナクソス、ミュコノス、テノスへ移住、ドーリス人メロスシキノス、テラへ移住した。そのなかでもデロス島アポロン神殿はナクソスの影響下のもとにあった。そのナクソスは一時期、アテネの介入によりリュグダミスによる僭主政が行われるが、僭主政が終るとナクソスはキクラデス諸島における強国となってゆく[26]

前古典期

左、黒像様式陶器。右、赤像様式陶器

前8世紀以降、神殿を中心とした大規模な建築物が再び建設されるようになり、いわゆるポリス(都市国家)が形成されてゆく。そしてそのポリスを中心にして、地中海や黒海へ植民を行ったことからこの時代を植民時代と呼ぶこともある。この植民活動はポリスにおける党派争いから破れた人々が行ったことなどもあり、まだまだ揺籃期にあったポリスにおいて混乱を避けるための安全弁的な意味もあった。また、有力な市民が独裁者となる僭主政なども発生し、これの代表者としてはコリントスキュプセロスアテナイペイシストラトスなどが挙げられる[27]

また、この時代は植民活動の始まった時代でもあった。植民活動の初期は金属資源を求めるなど交易を求めての活動であったが、徐々に各地にポリスを形成して行きシチリア南イタリアアフリカ北岸黒海沿岸などへ植民市を形成して行った。この植民活動によりギリシア人は地中海全域に渡り交易活動を活発に行うようになり、各地にそれぞれのポリスを築いてゆき、それぞれの活動を行うが、文化面では共通のものを育んでいった。それは共通の神々を崇め、そしてホメロスの叙事詩を愛することでギリシア人であることをアイデンティティとして形成していたからであった[28]。このアイデンティティはヘシオドス作の『仕事と日』や『神統記』にてギリシア人精神の覚醒が描かれ、さらにアルキロコスサッフォーテオグニスピンダロスピュタゴラスクセノファネスタレース、などが活躍した。さらにオリエントの影響を受けていた美術では厳格様式と呼ばれる様式が確立し、アテナイでは黒像様式や赤像式と呼ばれる陶器の生産も始まった[29]。また、この植民活動の盛んな時代、都市国家の建設があると法律の成文化が進められるようになった。このように文化的にも政治的にもギリシアが大いに発展した時代でもあった[30]

古典期

古代ギリシアの三段櫂船紀元前5世紀
古代アテナイのテトラドラクマ銀貨(紀元前5世紀)

古典期[# 4]に入るとアテネがこの時代の代表的な舞台となる。紀元前508年、クレイステネスがアテネにおいて民主制の基盤を整えて以降、アテネはアケメネス朝ペルシアの二度の侵攻、いわゆるペルシア戦争に勝利することでその名声を高めて行く。そしてアテネはデロス同盟を結び、その盟主となるとエーゲ海を支配して行き、さらに民主化が進んで行き、この時代にアテネは全盛期を迎える。しかし紀元前431年に勃発したペロポネソス戦争が長期化し、紀元前403年にスパルタに破れたことでアテネは凋落し、その後、スパルタ、テーバイとその主導権は移ってゆくが、北方のマケドニア王国の勃興によりポリスは徐々にその支配を受けて行くことになる[32]

この古典期は後世のヨーロッパ人に影響を与え、ルネサンス時代にはこの古典期に魅了され、そのすぐれた美術品や人間中心の考え方を「模範」として見出し、この時代を「古典期」とした[33]。そしてこの時代、ギリシア人としての出現とともに西洋文明が始まったとされ、ギリシア人が作り出した無数の価値観がそのまま後世に持ち込まれてゆき西洋文明の中核をなすものとなっていった[34]

ヘレニズム時代

アレクサンドロス3世時のマケドニア王国の最大版図
アレクサンドロス3世。愛馬ブケパロスに騎乗したアレクサンドロス(拡大図)
重装歩兵(アテネの戦士)

紀元前4世紀前半、スパルタ、テーバイ、アテネらは勢力争いを繰り広げたがどのポリスも覇権を唱えることができず、さらにはその力を失墜させて行った。その中、北方で力を蓄えていたマケドニア王国ピリッポス2世がギリシア本土へ勢力を伸ばしてゆく。特に第三次神聖戦争では隣保同盟の主導権を手中に収め、その後もアテネ・テーバイ連合軍をカイロネイアにおいて撃破、ギリシア征服を成し遂げた。ピリッポス2世はコリントス同盟(ヘラス同盟)を結びその盟主となってペルシア遠征を決めたが、前336年暗殺された。その後を継いだのが大王アレクサンドロス3世である[35]

ギリシアの覇者マケドニア王国の王となったアレクサンドロスはトリバッロイ人の反乱、イリュリア人の大蜂起、テーバイの反乱などを速やかに鎮圧し、コリントス同盟の会議を招集、父王フィリッポスの意志を次いでペルシア遠征を行うことを決定した。前334年春、アレクサンドロスはギリシアを出発、大遠征を開始した。前331年ペルシアを崩壊させるとそのまま東進、バクトリアソグディアナを越え、インドまで到達し、インダス川を越えたところで兵士たちの拒絶により帰還を開始したが、前323年、アレクサンドロスは熱病のため死去したが、彼の構築した大帝国はその後300年に及ぶヘレニズム時代の始まりを告げるものであった[36]

アレクサンドロスの死後、王位をめぐっての争いが発生し、遺児アレクサンドロス4世アッリダイオスが共同統治することが決定されたが、「ディアドコイ(後継者)」と呼ばれる有力者、ペルディッカスアンティゴノスプトレマイオスリュシマコスセレウコスエウメネスらの間で互いに勢力を広げるための争いが生じ、ディアドコイ戦争が勃発した。その中、前310年にアレクサンドロス4世が暗殺され王家の血筋が断絶すると、勢力争いで生き残ったディアドコイらは王を名乗り、さらに争った。前301年、イプソスの戦いが起ると、プトレマイオス、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスらにより帝国は分断され、プトレマイオス朝エジプトセレウコス朝シリア、リュシマコス朝、カッサンドロス朝がそれぞれ成立した[37]

ヘレニズム時代における主要ディアドコイたちの領土: その他の色は以下の通り:
  ギリシャ植民市
オレンジ色の箇所は紀元前281年の時点では係争中であり、ペルガモン王国がこの地域の一部を占領した。インド・グリーク朝は表示していない。

ディアドコイ戦争後、エジプトとシリアはそれぞれ支配が安定したが、マケドアニアを含むギリシア本土はその後も争いが続き、最終的にリュシマコスがマケドニアの支配に成功したが、リュシマコスもセレウコスとの戦いで戦死した。リュシマコスの死去により、ギリシア北部の防壁がなくなり、ガリア人らの侵入が始まった。南下したガリア人らはマケドニア、トラキア、テッサリアを攻撃したのち、デルフォイ、小アジアまで進撃したが、これは撃退された。前227年トラキアでガリア人らを撃破したアンティゴノス・ゴナタス(2世、アンティゴノスの孫)がマケドニア王となり、ここにアンティゴノス朝が成立し、それまで様々な支配者のために混乱していたマケドニアは一旦落ち着きを見せた[38]

前3世紀後半に入るとイタリア半島を統一し、第一次ポエニ戦争に勝利したローマがバルカン半島へ進出し始めた。前229年に第一次イリュリア戦争に勝利したローマはバルカン半島へ初めて進出した。第二次イリュリア戦争に勝利したローマはイリュリアに圧力をかけ始めたが、マケドニアはイリュリアと友好関係にあったため、間接的ながらローマとの関係を持つようになった。イリュリアへの圧力を強めていたローマが第二次ポエニ戦争の勃発によってカルタゴの将軍ハンニバルの攻撃を受けてカンナエの戦いに敗北すると、マケドニア王フィリッポス5世はハンニバルと同盟を結んでローマに対抗しようとしたが、これに反応したローマはこれを攻撃、ここに第一次マケドニア戦争が勃発したが、この戦いはフォエニケの和約で終息した[39]

フィリッポス5世はシリアのアンティオコス3世と同盟するとローマの友好国ロドスペルガモンらはこれに脅威を覚え、ローマに支援を要請した。第二次ポエニ戦争に勝利したことで東地中海への進出を目論んでいたローマはこれを快諾、第二次マケドニア戦争が勃発した。前197年キュノスケファライの戦いでローマが大勝するとマケドニアはギリシア本土からの撤退を余儀なくされ、ギリシア本土はローマの影響下に置かれた。この時、ローマのフラミニヌスはギリシア人の自由を宣言、ギリシア人らを歓喜させた。「このギリシアの自由の宣言」によってローマはギリシアの保護者となってギリシア支配を強めて行った[# 5][40]

第二次マケドニア戦争で敗北したフィリッポス5世は国力の増強に努めたが、その次の王ペルセウスは先代とは違い積極的な勢力拡大を目論んだ。そのため前171年第三次マケドニア戦争が勃発、前168年ピュドナの戦いでマケドニアは敗北、ローマの保護下に置かれマケドニア王国はここに滅亡した。そして前149年ペルセウスの子を名乗るアンドリスコスが蜂起、第四次マケドニア戦争が勃発したが、ローマはこれを鎮圧、マケドニアはローマの属州となった[41]

一方、マケドニアに支配されたポリスはヘレニズム時代を通じて未だ健在であった。ただし、ポリスという単位はすでに限界に達しており、複数のポリスで相互に協力し合うようになったことがヘレニズム時代の特徴として挙げられる。前3世紀にはアイトリア連邦アカイア連邦という連邦組織が形成され、すでに限界に達していたポリスを集団化させることでギリシアにおける政治勢力としてマケドニア、シリア、ローマなどに対抗、時には連携して行った。アイトリア連邦はギリシア北西部でガリア人の侵入に対抗するために形勢され、当初こそ親ローマであったが、第二次マケドニア戦争以後は反ローマの中心となって戦ったが、同盟を結んでいたシリアがシリア戦争で敗北するとローマの支配下となった。アカイア連邦はペロポネソス半島で形勢され、スパルタを吸収するなどペロポネソス半島で勢力を誇ったが、前146年ローマに敗北したことでアカイア連邦は崩壊、ギリシア世界の独立も同時に失われた[42]


注釈

  1. ^ ギリシャではエーゲ海ミロス島でしか産出しない[6]
  2. ^ 山羊、羊に関しては野生種の存在がギリシャでは確認されていないため、アナトリア方面から移入してきたことが確実視されている[8]
  3. ^ この地域にはマグーラと呼ばれる小高い丘が存在するが、これは西アジアのテルに相当する新石器時代の集落址であることが多い[9]
  4. ^ この名称はこの時代に発達した哲学、諸芸術、自然科学を代表とするものが現在人類にとって普遍的な存在であることから原点という意味で古典期(クラシック)と呼ばれている[31]
  5. ^ ただし、この自由というのはあくまでもローマ支配下での自由であり、ギリシャのローマ従属を明らかにしたものでしかなかった[40]
  6. ^ 古代ギリシア語は30ほどの文字を組み合わせることによって表記することができたが、線文字Bは明らかにそれ以上の文字が存在したため、古代ギリシア語とは関連がないと考えられていた。しかし、これは古代ギリシア語を文字で表す際に母音、子音などを使用していたのに対して線文字Bは音節文字と表意文字からなっていたためであった。そのため、多くの研究者らは線文字Bはインド・ヨーロッパ語族が使用したものではないと考えていた[56]

出典

  1. ^ a b 桜井 2005, p. 16.
  2. ^ a b 周藤 1997a, pp. 20–21.
  3. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 19–20.
  4. ^ 周藤 1997a, p. 21.
  5. ^ 周藤 1997a, p. 22.
  6. ^ a b 桜井 2005, p. 17.
  7. ^ 木戸 1977, p. 188.
  8. ^ 桜井 2005, p. 19.
  9. ^ a b 桜井 2005, p. 20.
  10. ^ 桜井 2005, pp. 17–20.
  11. ^ a b 桜井 2005, p. 21.
  12. ^ 桜井 2005, p. 22.
  13. ^ 桜井 2005, pp. 22–23.
  14. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 22.
  15. ^ 桜井 2005, p. 24.
  16. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 23.
  17. ^ a b 周藤 & 村田 2000, p. 24.
  18. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 25–26.
  19. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 26–27.
  20. ^ a b 周藤 & 村田 2000, p. 27.
  21. ^ 桜井 2005, pp. 48–49.
  22. ^ 周藤 1997b, p. 56.
  23. ^ a b 桜井 2005, p. 50.
  24. ^ 桜井 2005, p. 68.
  25. ^ 桜井 2005, p. 69.
  26. ^ 桜井 2005, pp. 69–70.
  27. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 27–28.
  28. ^ 桜井 2005, pp. 56–58.
  29. ^ a b 桜井 2005, p. 75.
  30. ^ モアコット 1998, p. 37.
  31. ^ 周藤 1997b, p. 58.
  32. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 28–29.
  33. ^ ロバーツ 2003, p. 124.
  34. ^ ロバーツ 2003, p. 126.
  35. ^ 桜井 2005, pp. 103–104.
  36. ^ 桜井 2005, pp. 105–108.
  37. ^ 桜井 2005, pp. 110–113.
  38. ^ 桜井 2005, pp. 114–117.
  39. ^ 桜井 2005, pp. 125–126.
  40. ^ a b 桜井 2005, pp. 126–127.
  41. ^ 桜井 2005, pp. 127–128.
  42. ^ 桜井 2005, pp. 120–122.
  43. ^ 桜井 2005, pp. 6–9.
  44. ^ モアコット 1998, pp. 13–16.
  45. ^ 周藤 1997a, p. 1196.
  46. ^ 桜井 2005, pp. 95–96.
  47. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 110–111.
  48. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 111.
  49. ^ レベック 1993, p. 144.
  50. ^ 桜井 2005, p. 58.
  51. ^ 桜井 2005, p. 159.
  52. ^ モアコット 1998, pp. 132–133.
  53. ^ 周藤 2006, p. 38.
  54. ^ 周藤 2006, pp. 38–39.
  55. ^ a b 周藤 2006, p. 39.
  56. ^ a b 周藤 2006, pp. 40–41.
  57. ^ [1]NHKスペシャル『知られざる大英博物館』「古代ギリシア」の回
  58. ^ NHKスペシャル『知られざる大英博物館』古代ギリシアの回
  59. ^ 「ふしぎ発見!」が世界初の試み パルテノン神殿を色鮮やかに再現





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