アテナイの民主主義とは? わかりやすく解説

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アテナイの民主主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/06 06:03 UTC 版)

ペリクレスを描いた絵

アテナイの民主主義(アテナイのみんしゅしゅぎ、ギリシア語: Αθηναϊκή Δημοκρατία)は、紀元前5世紀前後のアテナイアッティカの周辺地域において発展した。世界で初めての民主主義として知られており、ポリス(都市国家)において発展した。他のギリシアの都市では、アテナイの方式に倣った民主主義が成立していたが、アテナイの民主主義ほど記録が残されていない。

アテナイの民主主義は、直接民主制であり、市民が法律や法案に直接投票した。しかしすべての住民が投票に参加できたわけではなく、投票者は、大人の男性市民である必要があった。そのため外国人居住者、奴隷、女性に投票権はなく、その数は人口約25-30万人のうち3-5万人、あるいは「成人の総人口の30%未満であった」と言われている。

最も長くアテナイを統治した民主主義指導者は、ペリクレスであった。彼の死後、ペロポネソス戦争が終わるころに起きた、寡頭制革命によって、アテナイの民主主義は、2度中断された。そしてEucleidesの下で復活した後に、制度に変更が加わり、最も詳細に伝わっているのはペリクレスの時代の制度ではなく、この紀元前4世紀に変更された制度である。民主主義は、紀元前322年にマケドニア人によって抑圧された。アテナイの制度は後に復活したが、元来の民主主義にどの程度近いのかに関しては、議論の余地がある。ソロン(紀元前594年)、 クレイステネス(紀元前508-507年)、エフィアルテス(紀元前462年)は、アテナイ民主主義の発展に貢献した。クレイステネスは、財産ではなく居住していた地域によって、市民を10の部族に編成することで、貴族の権力を弱体化させた。

語源

「民主主義」を意味する英語: democracy(デモクラシー、古代ギリシア語: δημοκρατία)は

合成語で、「人々の力」の意味となる。[注釈 1]

現在「民主主義」と呼ばれている制度が初めて成立したときに古代ギリシア語: δημοκρατίαという語が存在したかどうかは分かっていない。この語はヘロドトスの「歴史」 (6.43) で使用されているが、この文献が著されたのは紀元前440年から430年以降のことである。紀元前460年頃にはデーモクラテースという名前の人物が知られており[6]、彼の名前はおそらく民主主義への忠誠心を表したものである。また、同名の人物がアイオリアテムノス英語版にもいたとされる[7]

脚注

注釈

  1. ^ 君主政治を意味する英語: monarchy寡頭政治を意味する英語: oligarchyも2語による合成語であるが、その2語目は「アルケー」(古代ギリシア語: ἀρχή)からきており、「始まり」「最初に来るもの」、そこから転じて「最初の場所または力」「主権・統治権」をも意味する[3]。 類似する語の「デマーキー」(英語: demarchy古代ギリシア語: δημαρχία)は、アテナイの民主主義者によって用いられるようになったと思われる場合があるが、この語はそれ以前から「統治者」「市長職」の意味で使用されており、ポリスにおいて身分の高い公職につく人物を示していた[4] 現代では、英語: demarchyは「くじ」を意味する語として使用されている[5]

出典

  1. ^ δῆμος - The Online Liddell-Scott-Jones Greek-English Lexicon”. Thesaurus Linguae Graecae. 2018年2月9日閲覧。
  2. ^ κράτος - The Online Liddell-Scott-Jones Greek-English Lexicon”. Thesaurus Linguae Graecae. 2018年2月9日閲覧。
  3. ^ ἀρχή - The Online Liddell-Scott-Jones Greek-English Lexicon”. Thesaurus Linguae Graecae. 2018年2月9日閲覧。
  4. ^ δημαρχία - The Online Liddell-Scott-Jones Greek-English Lexicon”. Thesaurus Linguae Graecae. 2018年2月9日閲覧。
  5. ^ Demarchyの意味・使い方 - 英和辞典 Weblio辞書”. Weblio. 2018年2月9日閲覧。
  6. ^ Raaflaub, Kurt A. (2007): The Breakthrough of Demokratia in Mid-Fifth-Century Athens, p. 112, in: Origins of Democracy in Ancient Greece. Berkeley: University of California Press. (2007) 
  7. ^ クセノポン 著、松平千秋 訳(古代ギリシア語) 『一万人の退却岩波書店東京都日本〈岩波文庫〉、1993年6月1日 (原著紀元前370年)。ISBN 978-4003360323。4.4.15.。 

アテナイの民主主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:12 UTC 版)

プニュクス」の記事における「アテナイの民主主義」の解説

フランス古典学Robert Flacelière は、プニュクスには最大2万人の市民立った状態で集まることができたとした。bema の前の草地古代には岩がむき出しになっていて、約6,000人がそこに立つことができた。この人数は当時政治的活動参加していた市民人数市内生まれた奴隷でない男子、または成人20%)の推定値とすることができる。そこには500人の評議員のための木製座席があった。彼らは集会選ばれ都市日常業務遂行する人々である。後に高官陽射しから守るため、2つ柱廊または壁のある回廊建設された。 理屈の上では全市民がここで演説する権利平等に有するとされた。実際にアテナイ階級社会であり、リーダー認められた者が議事進行支配する傾向があった[要出典]。その多くはかつてアテナイ支配していた古い貴族家系属していたが、貧しい者が巧み話術民衆心をつかむことができれば注目されるうになる50歳を越えた市民優先的に演説できるという規則があった[要出典]。 ペロポネソス戦争での非常事態の際に寡頭政による権力掌握が行われ、紀元前411年紀元前404年の2回、アテナイ民主政中断した三十人政権呼ばれるスパルタ影響生まれた寡頭政だったが、紀元前403年には再び民主政戻りプニュクスでの集会再開された。紀元前338年カイロネイアの戦い敗れたアテナイピリッポス2世征服された。しかし、デモステネス反乱起きた紀元前322年までは内政民主的に実施していた。彼の死後も、アテナイでは内政民主的に運営しそれがしばらく続いた

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「アテナイの民主主義」を含む「プニュクス」の記事については、「プニュクス」の概要を参照ください。

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