アテナイの民主主義
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民主主義 |
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アテナイの民主主義(アテナイのみんしゅしゅぎ、ギリシア語: Αθηναϊκή Δημοκρατία)は、紀元前5世紀前後のアテナイとアッティカの周辺地域において発展した。世界で初めての民主主義として知られており、ポリス(都市国家)において発展した。他のギリシアの都市では、アテナイの方式に倣った民主主義が成立していたが、アテナイの民主主義ほど記録が残されていない。
アテナイの民主主義は、直接民主制であり、市民が法律や法案に直接投票した。しかしすべての住民が投票に参加できたわけではなく、投票者は、大人の男性市民である必要があった。そのため外国人居住者、奴隷、女性に投票権はなく、その数は人口約25-30万人のうち3-5万人、あるいは「成人の総人口の30%未満であった」と言われている。
最も長くアテナイを統治した民主主義指導者は、ペリクレスであった。彼の死後、ペロポネソス戦争が終わるころに起きた、寡頭制革命によって、アテナイの民主主義は、2度中断された。そしてEucleidesの下で復活した後に、制度に変更が加わり、最も詳細に伝わっているのはペリクレスの時代の制度ではなく、この紀元前4世紀に変更された制度である。民主主義は、紀元前322年にマケドニア人によって抑圧された。アテナイの制度は後に復活したが、元来の民主主義にどの程度近いのかに関しては、議論の余地がある。ソロン(紀元前594年)、 クレイステネス(紀元前508-507年)、エフィアルテス(紀元前462年)は、アテナイ民主主義の発展に貢献した。クレイステネスは、財産ではなく居住していた地域によって、市民を10の部族に編成することで、貴族の権力を弱体化させた。
語源
「民主主義」を意味する英語: democracy(デモクラシー、古代ギリシア語: δημοκρατία)は
現在「民主主義」と呼ばれている制度が初めて成立したときに古代ギリシア語: δημοκρατίαという語が存在したかどうかは分かっていない。この語はヘロドトスの「歴史」 (6.43) で使用されているが、この文献が著されたのは紀元前440年から430年以降のことである。紀元前460年頃にはデーモクラテースという名前の人物が知られており[6]、彼の名前はおそらく民主主義への忠誠心を表したものである。また、同名の人物がアイオリアのテムノスにもいたとされる[7]。
脚注
注釈
- ^ 君主政治を意味する英語: monarchy、寡頭政治を意味する英語: oligarchyも2語による合成語であるが、その2語目は「アルケー」(古代ギリシア語: ἀρχή)からきており、「始まり」「最初に来るもの」、そこから転じて「最初の場所または力」「主権・統治権」をも意味する[3]。 類似する語の「デマーキー」(英語: demarchy、古代ギリシア語: δημαρχία)は、アテナイの民主主義者によって用いられるようになったと思われる場合があるが、この語はそれ以前から「統治者」「市長職」の意味で使用されており、ポリスにおいて身分の高い公職につく人物を示していた[4] 現代では、英語: demarchyは「くじ」を意味する語として使用されている[5]。
出典
- ^ “δῆμος - The Online Liddell-Scott-Jones Greek-English Lexicon”. Thesaurus Linguae Graecae. 2018年2月9日閲覧。
- ^ “κράτος - The Online Liddell-Scott-Jones Greek-English Lexicon”. Thesaurus Linguae Graecae. 2018年2月9日閲覧。
- ^ “ἀρχή - The Online Liddell-Scott-Jones Greek-English Lexicon”. Thesaurus Linguae Graecae. 2018年2月9日閲覧。
- ^ “δημαρχία - The Online Liddell-Scott-Jones Greek-English Lexicon”. Thesaurus Linguae Graecae. 2018年2月9日閲覧。。
- ^ “Demarchyの意味・使い方 - 英和辞典 Weblio辞書”. Weblio. 2018年2月9日閲覧。
- ^ Raaflaub, Kurt A. (2007): The Breakthrough of Demokratia in Mid-Fifth-Century Athens, p. 112, in: Raaflaub, Kurt A.; Ober, Josiah; Wallace, Robert, eds (2007). Origins of Democracy in Ancient Greece. Berkeley: University of California Press
- ^ クセノポン 著、松平千秋 訳(古代ギリシア語)『一万人の退却』岩波書店、東京都、日本〈岩波文庫〉、1993年6月1日(原著紀元前370年)。ISBN 978-4003360323。4.4.15.。
アテナイの民主主義
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フランスの古典学者 Robert Flacelière は、プニュクスには最大で2万人の市民が立った状態で集まることができたとした。bema の前の草地は古代には岩がむき出しになっていて、約6,000人がそこに立つことができた。この人数は当時政治的活動に参加していた市民の人数(市内で生まれた奴隷でない男子、または成人の20%)の推定値とすることができる。そこには500人の評議員のための木製の座席があった。彼らは集会で選ばれ、都市の日常業務を遂行する人々である。後に高官を雨や陽射しから守るため、2つの柱廊または壁のある回廊が建設された。 理屈の上では全市民がここで演説する権利を平等に有するとされた。実際にはアテナイも階級社会であり、リーダーと認められた者が議事進行を支配する傾向があった[要出典]。その多くはかつてアテナイを支配していた古い貴族の家系に属していたが、貧しい者が巧みな話術で民衆の心をつかむことができれば注目されるようになる。50歳を越えた市民が優先的に演説できるという規則があった[要出典]。 ペロポネソス戦争での非常事態の際に寡頭政による権力掌握が行われ、紀元前411年と紀元前404年の2回、アテナイの民主政が中断した。三十人政権と呼ばれるスパルタの影響で生まれた寡頭政だったが、紀元前403年には再び民主政に戻りプニュクスでの集会が再開された。紀元前338年、カイロネイアの戦いで敗れたアテナイはピリッポス2世に征服された。しかし、デモステネスの反乱が起きた紀元前322年までは内政を民主的に実施していた。彼の死後も、アテナイでは内政を民主的に運営し、それがしばらく続いた。
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