アテナイの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:48 UTC 版)
スパルタに敗れた後のアテナイには三十人政権と呼ばれる寡頭制政権が成立し恐怖政治を敷いた。間もなくトラシュブロスによって寡頭制は崩壊し富裕市民の合議制に戻ったものの、海外領土および隷属都市を失ったアテナイの経済力は衰退し政治が大きく乱れた。コリントス戦争後、紀元前377年に再度海上同盟を結成するなど国力を回復したものの、かつての勢いを取り戻すことは二度と無かった。紀元前357年に起きた同盟市戦争(英語版)により同盟市に対して大幅な譲歩を強いられ、紀元前338年にカイロネイアの戦いでマケドニアのフィリッポス2世に降伏してからはデモステネスの抵抗も空しく政治的独立性を失いアレクサンドロス大王とそれに続くディアドコイの帝国に編入された。アレクサンドロス大王の死後反乱(ラミア戦争)を起こしたものの、短期間で鎮圧された。ローマの支配下となった後は文化都市として栄えたが、域内完結型のローマ経済圏において生産力の乏しさから徐々に衰退し、6世紀頃までには東ローマ帝国の一地方都市となった。
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