アテナイへの干渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 06:28 UTC 版)
「クレオメネス1世」の記事における「アテナイへの干渉」の解説
僭主ペイシストラトス一族によってアテナイから追放されたアルクメオン家は、紀元前510年、ペイシストラトスの子でアテナイの僭主ヒッピアス打倒のための助力をスパルタに要請した。その際、アルクメオン家(首謀犯はクレイステネス)はデルポイの巫女を買収し、巫女にアルクメオン家を助けるべしとの神託をさせ、それを受けたクレオメネスはその通りにした。まず、スパルタはアテナイへ将軍アンキモリオスを派遣したが、ヒッピアスの援軍としてやってきたテッサリア騎兵1000騎にアンキモリオスは敗死した。次にクレオメネスは自ら総司令官として出陣した(紀元前510年)。テッサリア軍を破り、ペラルギオン砦に篭った僭主の一党を包囲した。当初ヒッピアス派には篭城の備えが十分あり、スパルタ軍には城攻めの意図はなかったが、偶然包囲軍が国外へ逃亡しようとしていたペイシストラトス一族の子女を捕らえたことでヒッピアス派は混乱し、5日以内にアッティカを去るという条件で降伏した。アテナイを僭主から解放したクレオメネスは大きな名声を得た。 その後、アテナイではイサゴラスとクレイステネスが政権を争い、平民を味方につけたクレイステネスが勝利した。そこでイサゴラスはクレオメネスに助けを求め、軍を率いてやってきたクレオメネスはクレイステネスたちを「穢れ人」(かつて反乱者キュロンたちに生命を助けると言いつつも約束を反故にして彼らを処刑し、その責任をアルクメオン家が問われたことから)として追放すべしと弾劾した(紀元前508年)。彼らを追放したクレオメネスはブーレー(en:Boule (ancient Greece):評議会)を廃止してイサゴラス派の300人に政権を委ねようとし、反対したブーレーをアクロポリスに包囲したがアテナイ人による包囲攻撃を受けて失敗したため、クレオメネスはアテナイを去った。 これに怒ったクレオメネスは続く年にアテナイに復讐をし、イサゴラスをアテナイの僭主とするためにペロポネソス軍を率いてエレウシスに侵攻した。クレオメネスの軍はオイノエとヒュシアイを占領したものの、軍うちのコリントス軍が自分たちの行いは正しくはないと考えて引き上げ、続いてデマラトスも引き上げたことにより侵攻作戦は失敗した。 その後、クレイステネスによる巫女の買収が明るみに出、また独裁者から解き放たれて強大となりつつあるアテナイを警戒したクレオメネスは対アテナイ政策を一転した。彼はヒッピアスと同盟諸国の使節を招いてヒッピアスをアテナイに復権させようと提案したが、コリントスでかつて起った僭主政の惨禍を引き合いに出して僭主政を厳しく批判したコリントス人ソクレスを皮切りに反対意見が続出し、結局計画は中止された。その後ヒッピアスはペルシアを頼り、これが後の第一次ペルシア戦争の一因となった。
※この「アテナイへの干渉」の解説は、「クレオメネス1世」の解説の一部です。
「アテナイへの干渉」を含む「クレオメネス1世」の記事については、「クレオメネス1世」の概要を参照ください。
- アテナイへの干渉のページへのリンク