アテナイの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:48 UTC 版)
アカイア人分派のイオニア人がアッティカ地方に定住したのは紀元前2000年ころと推定され、紀元前1200年ころから紀元前1100年ころにかけてドーリス人の侵入をうけ周辺村落は次々と征服された。アテナイは、これを凌いで続く暗黒時代を通して王政(英語版)を維持しつつ存続した(もっとも、当時のアテナイは経済的に未熟で土地も肥沃ではないため、ドーリス人が攻略する価値を見出せなかった)。このころ代々の王家に代わって、移住者の子孫であるピュロス王家が成立する。 アテナイは立地条件を生かし、エーゲ海や黒海での海上交易を中心に、交易都市として発展していく。ソロンの改革によって経済的に活性化され、主に陶器の輸出や穀物や織物の輸入などが扱われていく。また、アイギナとコリントスの経済を巡る覇権争いでは、当初はアイギナ側に立ったが後にコリントス側に移ってその優位を助け、後にコリントスが衰退の気配を見せると並び立った。この動きに拍車をかけたのはラウリオン銀山(古希: Λαύριον, 古代ギリシア語ラテン翻字: Laurion)の存在である。その発掘の歴史はカルタゴのイベリア開発等と比べ遅れるものの、ギリシア世界では殆どとれなかった銀を唯一大量にとれる同銀山の本格的な採掘が開始されると、短期間のうちにその豊富な資金でアイギナ・コリントスに並ぶ存在となり、やがてギリシャ地方有数の都市となった。
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