アテナイの反応
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アテナイの市民は、最初はこの敗北を信じなかった。プルタルコスは対比列伝のニキアス伝で以下のように記載している。 アテナイ人は、この知らせをもたらした男のためでもあるが、最初は自軍の敗北を信じなかったと言われている。ピレウスを訪れた旅人が、床屋に来てアテナイ人にとっては周知のことであるかのように、敗北の話を始めた。これを聞いた床屋は、知人に知らせる前に大急ぎで街に走り、アルコン(街の最高官)にこのことを知らせ、まもなくこの話は大衆の間に広がった。当然ではあるが恐怖と驚愕が広がったために、アルコンは民会を召集してこの知らせをもたらした男に、どうやってこのことを知ったかを質問した。この男は満足に答えることができず、偽の情報を広めて混乱を起こしたとの罪で、この敗北に関する次の知らせがもたらされるまでの長い間、車輪に縛り付けられてしまった。ニキアスがしばしば予測していた悲劇であるが、実際に起こったと信じることは難しかった。 敗北の大きさが明らかになると、パニックが発生した。スパルタがデケレアをすでに占領しているため、アッティカも容易に占領されると思われた。 また敗北は他の都市国家の政治にも影響を与えた。それまで中立を維持していた都市は、ペロポネソス戦争でのアテナイの敗北は近いと考えて、スパルタ側についた。デロス同盟に加盟していたアテナイの同盟都市の多くも反旗を翻した。アテナイは直ちに艦隊の再建を始めたものの、同盟都市の離脱に対してできることはほとんど無かった。およそ10,000の重装歩兵が消滅し、もちろんこれも大打撃ではあったが、最大の懸念はシケリアに派遣した大艦隊を失ったことであった。三段櫂船は再建できるが、シケリアで失った30,000に達する経験あるこぎ手の代替は不可能であった。再建された艦隊のこぎ手は、十分に訓練されていない奴隷を使うしかなかった。 紀元前411年、アテナイでは民主政に代わって寡頭制が導入され、ペルシア帝国までもがスパルタ側に立って参戦した。状況はアテナイにとって恐ろしいものであったが、数年の間に回復することができた。寡頭制は停止され、キュノスセマの海戦(en)にアテナイは勝利した。しかしながら、シケリア遠征の失敗は、実際にはアテナイの終わりの始まりであった。紀元前404年にアテナイは敗北し、スパルタに占領された。
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