アテナイとシケリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:52 UTC 版)
それまでアテナイ自身はシケリアに深く関与することはなかったが、ペロポネソス戦争前の紀元前5世紀中ごろから関係は有していた。小規模なシケリア都市国家にとっては、アテナイはシケリア全土を制覇しかねない強大なシュラクサイへの対抗勢力として期待された(シュラクサイはスパルタおよびそのペロポネソス同盟都市と同じくドーリア人都市であり、他方でシケリアにおけるアテナイ同盟都市はイオニア人都市であった)アテナイにとっては、シュラクサイが穀物やその他の支援をペロポネソス同盟に提供するという脅威があると同時に、征服可能な都市でもあった。 紀元前427年、レオンティノイからの救援依頼に応えて、アテナイは20隻の軍船をラケスの指揮の下、シケリアに送っていた。この作戦はレギオン(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)を基地として行われ、そこに数年間滞在してアテナイの同盟都市を支援してシュラクサイとその同盟都市と戦ったが、十分な成功を収めることはできなかった。紀元前425年、アテナイは援軍として三段櫂船40隻の増派を計画したが、航海の途中でピュロスの戦い(en)が発生し、艦隊はシケリアに予定通りには到着できなかった。夏も遅くなって艦隊はようやく到着したが、アテナイの同盟都市はすでに戦争に疲れており、シュラクサイと交渉することに同意していた。紀元前424年に開催されたゲラ会議において、シケリア都市国家は「シケリア人のためのシケリア」を基礎とした平和条約を結び、アテナイ艦隊もこれを認めて本国に引き上げた。
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