古代ギリシア 古代ギリシア人とは

古代ギリシア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 19:43 UTC 版)

古代ギリシア人とは

古代ギリシアにおいてギリシア人をどう定義するかという問題がある。旧石器時代以降、ギリシアに人類が定住していたことは間違いないが、古代ギリシア語となる言語を話していた民族は古代ギリシア語がインド・ヨーロッパ語族に属することから前2200年頃にギリシアの方へ移動したと考えられている。古代ギリシア語はすくなくともミケーネ時代には使用されており、この古代ギリシア語を使用したからこそ古代ギリシア文化が花開いた。さらに研究者の間ではギリシア人としての自己意識が関わるとする。古代ギリシアにおいてはギリシア人である要件に言語、出自、そして祭礼などが共通であるとヘロドトスの著した『歴史』には記載されている[43]

文化

ギリシア文字

左、線文字A。右、線文字B

古代ギリシア語における文字はギリシアと西アジア、エジプトとの通商が行われるようになってから経済的な理由から発展したと考えられる。BC1700年以降のクレタ島の遺跡やエーゲ海の島嶼部では言語系統は不明で未だに解読されていない線文字Aが発見されており、さらにはそれを発展させた線文字BがBC1400年以降に使用された形跡が見つかっている。線文字Bはクレタ島、ギリシア本土の遺跡で発見されており、解読された結果、線文字Bはギリシア語を筆記したものであった[44]、がこれは経済的管理を行うために使用されたもので宮殿の書記など一部の者しか理解することができなかった[23]

前8世紀にギリシア人たちがフェニキア人らと接触すると、それまでギリシア人としてのアイデンティティの拠り所であるホメロスの叙事詩などを口承で伝えられて来たものが、フェニキア人らからフェニキア文字を借用することでギリシア文字を作成、文字によって内容を定着させることが可能となった。そして、このアルファベットは言葉を書き留めることが可能となったことで瞬く間にエーゲ海に広がって行った[45]

文学

プラトン時代のアカデメイアを描いたモザイク画
エピダウロスの劇場(紀元前4世紀)

古代ギリシアにおける文学の出発点はホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』である。これはミケーネ時代に口承で伝えられたものがアルファベットの確立によって固定化された。この叙事詩はヨーロッパにおける最古の文学作品である[20]。さらにはホメロスと並んで評されるヘシオドスは『仕事と日々』や『神統記』に、前古典期の精神の覚醒を著した。その他叙事詩では断片ではあるがアルキロコスサッフォー、テオグニス、ピンダロスなどやピュタゴラスクセノファネスなども生まれた[29]

古典期に入ると、アテナイで多くの文化が生まれた。アイスキュロスソフォクレスエウリピデスなどの三大悲劇詩人や喜劇詩人としてアリストファネスが生まれた。そのほかにも歴史家トゥキュディデスヘロドトスが生まれ、さらに哲学の分野ではソクラテス、弟子のプラトン、孫弟子のアリストテレスらも存在を示した。そのほかに弁論家リュシアスデモステネスらが生まれ弁論(レトリック)も発達した[46]

宗教

ギリシア神話の描かれた壺、左からアポロンゼウスヘラ

古代ギリシアでは宗教は大きな位置を占めており、アテナイでは一年の三分の一が宗教儀式に当てられており、生活の隅々にまでその影響は及んでいた。特にミケーネ時代後期にはすでに機能していたと考えられているデルフィの神託は紀元前8世紀には各ポリスが認める国際聖域となり、デルフィでの神託は未来を予知するためのものだと認識されていた。さらにはデルフィに各ポリスが人を派遣したことから各ポリスの交流の場所としても機能していた[47]

古代ギリシアにおいては個人のみならず、ポリス単位までが眼に見える形での神への祭儀を中心に活動しており、これを行うことで家族やポリスの住民らが集団的にかつ利害関係を明確にし、さまざまな集団が共に進んで行くということを明確にしていたと考えられる[48]

クセノフォンによれば宗教儀式が最も多かったのはアテネとしており、アリストファネスも神殿と神像の多さと一年中行われる宗教儀式に驚いている[49]

オリンピア

全ギリシアの四大神域としてオリュンピアデルフォイネメア、イストミアがあり、これらの神域は全ギリシアからの崇拝を集めていた。デルフォイは神託で有名であったが、ペロポネソス半島西部にあるオリュンピアは前776年前後に第一回オリュンピア競技会が開かれたことで徐々にギリシア各地のポリスが参加、前7世紀には全ギリシア的(パンヘレニック)的な神域となった。この四年に一度開かれた競技会はエリス、ピサの両ポリスがその管理運営権を巡って争ったが、のちにエリスがそれを手中に収め[50]、393年、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世による廃止まで続いた[51]

建築

アテネのゼウス神殿

ギリシア建築はローマ時代を通じて間接的ではあるがヨーロッパの建築物に多大な影響をおよぼして来た。ミケーネ時代はキュクロプス式の城壁のように壮大なものが多く、また、クレタのミノア遺跡やサントリーニー島に現在も住居の遺跡が残されている。そしてミケーネのメガロンは古典時代の神殿に影響を与えている。また、古典期、ヘレニズム時代では昔から存在した都市は古代からの流れを汲み組織的に発達してきた。それに対して小アジアではは計画的に建設されており、この計画はグリディロンと呼ばれる[52]

民族主義、民族差別の影響

ミケーネ文明はハインリヒ・シュリーマンによって様々な遺物が発見されたが、当時は科学的優生学社会ダーウィニズム、また人種主義民族主義民族差別などがヨーロッパにおいて根強く、それら心理的要因により改竄が行われた可能性もある。クノッソス宮殿はウィンザー城をモデルとして復元され、ミケーネで発見されたアガメムノンのマスクもカイゼル髭が付け加えられた[53]

これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、植民地の宗主国である国々にとってふさわしい文明である必要があったために行われたもので、西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった[54]

しかし、この専制君主のイメージは、古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシア史研究家の間ではとうてい受け入れられるものではなかった。そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシア文明との間に存在していた「暗黒時代」が利用されていった[55]

この暗黒時代を利用することで、エーゲ海先史文明は「前1200年のカタストロフ」によって崩壊、白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシア文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。しかし、線文字Bが解読されたことで、その矛盾は再び闇から蘇ることになった[55]

エーゲ海先史文明が古典期ギリシアの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、線文字Bはギリシア語ではないと考える研究者が大半であったが[# 6]、1952年、マイケル・ヴェントリスによって解読されると線文字Bはギリシア語を表す文字であったことが判明した。1956年、ヴェントリスとジョン・チャドウィックらが線文字Bのテキストを集成した出版物を刊行、1963年にはL・R・パーマーらが新たな粘土板の解釈を提示、1968年には大田秀通による研究が刊行されるとミケーネ文明の研究は躍進することになった[56]


注釈

  1. ^ ギリシャではエーゲ海ミロス島でしか産出しない[6]
  2. ^ 山羊、羊に関しては野生種の存在がギリシャでは確認されていないため、アナトリア方面から移入してきたことが確実視されている[8]
  3. ^ この地域にはマグーラと呼ばれる小高い丘が存在するが、これは西アジアのテルに相当する新石器時代の集落址であることが多い[9]
  4. ^ この名称はこの時代に発達した哲学、諸芸術、自然科学を代表とするものが現在人類にとって普遍的な存在であることから原点という意味で古典期(クラシック)と呼ばれている[31]
  5. ^ ただし、この自由というのはあくまでもローマ支配下での自由であり、ギリシャのローマ従属を明らかにしたものでしかなかった[40]
  6. ^ 古代ギリシア語は30ほどの文字を組み合わせることによって表記することができたが、線文字Bは明らかにそれ以上の文字が存在したため、古代ギリシア語とは関連がないと考えられていた。しかし、これは古代ギリシア語を文字で表す際に母音、子音などを使用していたのに対して線文字Bは音節文字と表意文字からなっていたためであった。そのため、多くの研究者らは線文字Bはインド・ヨーロッパ語族が使用したものではないと考えていた[56]

出典

  1. ^ a b 桜井 2005, p. 16.
  2. ^ a b 周藤 1997a, pp. 20–21.
  3. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 19–20.
  4. ^ 周藤 1997a, p. 21.
  5. ^ 周藤 1997a, p. 22.
  6. ^ a b 桜井 2005, p. 17.
  7. ^ 木戸 1977, p. 188.
  8. ^ 桜井 2005, p. 19.
  9. ^ a b 桜井 2005, p. 20.
  10. ^ 桜井 2005, pp. 17–20.
  11. ^ a b 桜井 2005, p. 21.
  12. ^ 桜井 2005, p. 22.
  13. ^ 桜井 2005, pp. 22–23.
  14. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 22.
  15. ^ 桜井 2005, p. 24.
  16. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 23.
  17. ^ a b 周藤 & 村田 2000, p. 24.
  18. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 25–26.
  19. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 26–27.
  20. ^ a b 周藤 & 村田 2000, p. 27.
  21. ^ 桜井 2005, pp. 48–49.
  22. ^ 周藤 1997b, p. 56.
  23. ^ a b 桜井 2005, p. 50.
  24. ^ 桜井 2005, p. 68.
  25. ^ 桜井 2005, p. 69.
  26. ^ 桜井 2005, pp. 69–70.
  27. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 27–28.
  28. ^ 桜井 2005, pp. 56–58.
  29. ^ a b 桜井 2005, p. 75.
  30. ^ モアコット 1998, p. 37.
  31. ^ 周藤 1997b, p. 58.
  32. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 28–29.
  33. ^ ロバーツ 2003, p. 124.
  34. ^ ロバーツ 2003, p. 126.
  35. ^ 桜井 2005, pp. 103–104.
  36. ^ 桜井 2005, pp. 105–108.
  37. ^ 桜井 2005, pp. 110–113.
  38. ^ 桜井 2005, pp. 114–117.
  39. ^ 桜井 2005, pp. 125–126.
  40. ^ a b 桜井 2005, pp. 126–127.
  41. ^ 桜井 2005, pp. 127–128.
  42. ^ 桜井 2005, pp. 120–122.
  43. ^ 桜井 2005, pp. 6–9.
  44. ^ モアコット 1998, pp. 13–16.
  45. ^ 周藤 1997a, p. 1196.
  46. ^ 桜井 2005, pp. 95–96.
  47. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 110–111.
  48. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 111.
  49. ^ レベック 1993, p. 144.
  50. ^ 桜井 2005, p. 58.
  51. ^ 桜井 2005, p. 159.
  52. ^ モアコット 1998, pp. 132–133.
  53. ^ 周藤 2006, p. 38.
  54. ^ 周藤 2006, pp. 38–39.
  55. ^ a b 周藤 2006, p. 39.
  56. ^ a b 周藤 2006, pp. 40–41.
  57. ^ [1]NHKスペシャル『知られざる大英博物館』「古代ギリシア」の回
  58. ^ NHKスペシャル『知られざる大英博物館』古代ギリシアの回
  59. ^ 「ふしぎ発見!」が世界初の試み パルテノン神殿を色鮮やかに再現





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