アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 現在のアウシュヴィッツ

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/11 06:51 UTC 版)

現在のアウシュヴィッツ

アウシュヴィッツを訪問するローマ教皇ベネディクト16世

多くの要人が公式・非公式にかかわらずこの地を訪れている。一例として、1979年にはポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、2006年5月28日にはベネディクト16世が訪問している。ベネディクト16世は「この地で未曽有の大量殺戮があったことは、キリスト教徒として、ドイツ人教皇として耐え難いことだ」と述べた。

2016年にはフランシスコが訪問し「惨劇の場では言葉は無用」と「死の壁」の前や「聖コルベの監獄」の中で黙祷した。年間を通じイスラエル人学生の修学旅行のルートになっている。

日本からの訪問も増えており、多くても200人程度だった年間訪問者が近年は5,000人を超えた。なお、日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある。

アウシュヴィッツの死亡者数について

おびただしい数の眼鏡フレーム。収容の際に没収されたもの(オシフィエンチム博物館展示)
靴の山。女性もののサンダルも含まれている。(オシフィエンチム博物館展示)
慰霊の碑文(オランダ語)。この地で150万人が死んだことを後世に伝える(第二強制収容所)

現在のアウシュヴィッツ収容所博物館および公式ページでは、1999年の研究により1944年までに強制収容されたユダヤ人は110万人であり、うち20万人は労働に供されたと書かれている[6]

ニュルンベルク裁判では、「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と認定し、オシフィエンチム博物館の碑文にも「400万人」と記載されていたが、冷戦後の1995年「150万人」に改められている。

これら以外のアウシュヴィッツの死亡者数の推定について記載する。

125万人説

ラウル・ヒルバーグRaul Hilberg)による。

「100万人」のユダヤ人と「25万人」の非ユダヤ人の合計「125万人」が殺された。

120万人説

ユネスコの世界遺産に登録された人数。(2007年)

80万から90万人説

ジェラルド・ライトリンガー(Gerald Reitlinger)による。

63万人から71万人説

ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac)による。

(そのうちガス室の犠牲者は47万人から55万人であった)

50万人説

フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)による。

(そのうちガス室の犠牲者は35万人であった)

15万人説

アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz)など歴史修正主義者による。

「死亡者は15万人に達し、そのうち10万がユダヤ人であった。彼らは殺されたのではない。病気により死亡したのである。」

終戦直後の1945年当時にソ連が主張した400万人という数は、当時の非ナチ化の影響を強く受けていると認識されている。同様に近年においても、新たに主張される死亡者数の多い少ないにかかわらず政治または宗教的背景に影響されていることが多い。たとえば、イスラム教徒の反ユダヤ主義者との接触が疑われる「歴史見直し研究所」は15万人という数値を掲げている。このような問題の根本には「絶対的数値が今後も得られる可能性が低く、主張することによって自己または属する集団の利益に有利に働く」という事情が挙げられる。

否認主義(または修正主義)


注釈

  1. ^ 「アウシュビッツ」と表記している日本の歴史教科書もある。たとえば、『中学社会 歴史』(教育出版株式会社。文部省検定済教科書。中学校社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号17教出・歴史762)p 255では「また, 各国のユダヤ人は, ユダヤ人であるという理由だけでアウシュビッツなどの強制収容所に入れられて虐殺された。」と記載されている。
  2. ^ 東部併合地域から全てのユダヤ人と300-400万人に及ぶポーランド系ユダヤ人を移送し、入れ替わりに20 万のドイツ人を入植させる計画。
  3. ^ アンネの日記」「ハンナのかばん」などが著名。
  4. ^ 到着直後の処分を免れた被収容者には、一人ひとりに管理番号が与えられており、この総数が約40万件とされる。被収容者の30%に番号が与えられたとして、単純にこれらの数字を参考に総数を試算した場合「133万人」となる。25%だとすると「160万人」。しかし、これは仮定的な数値でしかない。
  5. ^ 前記の収容理由以外に、労働者の一般募集も行い、工場などへ派遣していた。労働力不足が顕著になってからは、募集のほかに、強制的に占領地の住民を連行するようになる。
  6. ^ 戦況が悪化して労働力の確保が難しくなると、人道的な観点からではなく、生産を落とさないために労働者の再生産について考慮されるようになるが、同時に食料自給も悪化しており、結局は、より厳しい状況に労働者はおかれるだけであった。
  7. ^ 終戦直後のソ連は「400万人が虐殺された」と発表したが、現在では誇張の可能性が高いと見るむきが強い。ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、東西冷戦終結後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められ、世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少したが、被収容者総数同様、確定的な数値の把握にはいたっていない
  8. ^ 持ち株会社のドイツ経済企業有限会社(DWB)、ドイツ装備品産業有限会社 (DAW)、ドイツ食糧試験所がSSの運営する企業。ドイツ食糧試験所はダッハウ強制収容所に調味料確保のためのハーブ栽培施設を作ったことでも知られる。
  9. ^ 1940年1月現在の工場数。
  10. ^ アウシュヴィッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。
  11. ^ 1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任はアルトゥール・リーベヘンシェル。さらにその後任で最後の所長はリヒャルト・ベーア(戦後、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で被告となるが収監中に死亡)。
  12. ^ 当初「ブナ収容所」と呼ばれていたが、1944年以降は「モノヴィッツ収容所」に改称。
  13. ^ 3年後に脱出し、アウシュヴィッツの証言者となったカジミェシ・アルビンも含まれていた。
  14. ^ 戦後、ユダヤ人がイーゲー・ファルベン社に対して起こした損害賠償と慰謝料を求める民事訴訟は、1957年に和解が成立。和解金として3,000万マルクが(このうち2,700万マルクがユダヤ人団体に、300万マルクが非ユダヤ人強制労働者に)支払われている。
  15. ^ BASF社、バイエル社、ヘキスト社の3社に分割された。
  16. ^ 「正面」「正面を向き視線を右上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。
  17. ^ 「Herbert, Geschichte der Ausländerpolitik, S.154.」では更に細かく分類している。「第一にドイツ人、続いて西欧労働者(フランス人市民労働者に続いてベルギー、オランダ人労働者)、そして続いてドイツと同盟あるいは従属関係にある南東ヨーロッパ出身労働者(ハンガリー、ルーマニア、スロヴェニア、セルヴィア、ギリシア、クロアチア)、次にチェコスロヴァキア(ベーメン、メーレン)出身労働者、そしてポーランド人、最後にソ連人、(1943年イタリア降伏後は)イタリア人、最下層にはユダヤ人が位置していた」。
  18. ^ 例外的なケースとしてフィリップ・ミューラーの件が挙げられる。彼自身の証言によれば1942年春から年末までゾンダーコマンドであったが、後に別の労働に移ることになり生き残ることができたとしている。彼はニュルンベルク裁判で証言台に立った。
  19. ^ 争いを避けるため被収容者間でパン屑の量まで計って配分したという証言もある[2]
  20. ^ 各労働者の労働力を3つのランク(ランク1. 一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下)いずれかに評価し、ランクによる配給制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による労働力確保の行き詰まりが挙げられる。
  21. ^ たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。[要出典]
  22. ^ 後に聖人に列せられたマキシミリアノ・コルベ神父は、他人の身代わりとしてこの餓死牢に入っている。
  23. ^ 占領地にSSが赴き、ユダヤ人や政治犯を殺害するというもの。強制収容所の管理も同じSSが行っている点に注目すると、占領地での殺戮行為が強制収容所内に持ち込まれてもおかしくはない状況と言える。
  24. ^ ヘースの証言によると、クレマトリウム4と5には資材不足から換気設備が備え付けられていなかった。すべてのガス施設での作業にはガスマスクが必要であったとする証言もある。
  25. ^ または「ブンカー」とも呼ばれる。
  26. ^ バイエルン赤十字(BRK)もこれに含まれる。
  27. ^ 「日本赤十字東京支部」に概要
  28. ^ 1949年に改定(第4項)。
  29. ^ 元視察員のモーリス・ロッセルはBBCのインタビューに対し、強制収容所の状況を自らの安全を考慮した上で直接現地から"正直"に報告することの難しさを述べている。
  30. ^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューに対し、スイスの国政にかかわる人間がICRC委員であったことに問題があったとも述べている。
  31. ^ 1939年から1941年に実施されたT4作戦にも関与した。
  32. ^ ただし、ナチスはドイツ国内で他民族(スラブ人など)が労働することを許可しない傾向にあり、もしこのような処置があったとしてもすべての被収容者に対してとは考えにくい。また、当時からソ連の体制に対する恐怖が一般大衆に少なからずあったことも事実であり、自主的な選択はもちろん、強制収容所という特殊な環境下においてこの恐怖を利用してドイツ移送を誘導的に承諾させたとも考えられる(ストックホルム症候群)。
  33. ^ アウシュヴィッツなどの強制収容所から解放され帰還したソ連兵捕虜、一般ソ連人(ソ連邦に属する人々)の多くは、敵に協力した反逆者としてソ連によって教化施設(強制労働施設)に送られることになる。
  34. ^ 強制収容所に残り、ソ連軍に解放された人々についても必ずしも安全が保障されたわけではなかったとする証言もある。ソ連は解放から約ひと月の間、他の連合諸国がアウシュヴィッツに立ち入ることを許可しなかった。このことが後にさまざまな疑念を生むひとつの原因にもなる。

出典

  1. ^ 世界遺産アカデミー監修 (2012) 『すべてがわかる世界遺産大事典・上』マイナビ、p.23
  2. ^ 『アウシュビッツの沈黙』 花元潔 東海大学出版会 2008年
  3. ^ 『アウシュビッツ博物館案内』 中谷剛 凱風社 2005年
  4. ^ アウシュヴィッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」Archived 2007年12月17日, at the Wayback Machine.
  5. ^ フォルクハルト クニッゲ; 柴嵜 雅子 (2008). “「最終的解決」の技術者たち”. 国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要 21 (3). http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/. 
  6. ^ http://auschwitz.org/en/history/the-number-of-victims/ As a result of the inclusion of Auschwitz in the process of the mass extermination of the Jews, the number of deportees began to soar. About 197 thousand Jews were deported there in 1942, about 270 thousand the following year, and over 600 thousand in 1944, for a total of almost 1.1 million. Among them, about 200 thousand people were selected as capable of labor and registered as prisoners in the camp






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