アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 人体実験

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 01:21 UTC 版)

人体実験

人体実験の舞台となった第10号棟の病院(第一強制収容所)

ドイツ人医師たちは、被収容者をさまざまな実験の検体とした。いわゆる「人体実験」である。カール・ゲープハルトエルンスト・ロベルト・グラーヴィッツホルスト・シューマンらはスラブ民族撲滅のために男女の断種実験を、ヨーゼフ・メンゲレ双子身体障害者、精神障害者を使った遺伝学人類学の研究を行ったとされる。

ほかにも新薬投与実験や有害物質を囚人の皮膚に塗布する実験などが行われた。命を落とした者は数百に及び、たとえ生還できても多くには障害が残った。ニュルンベルク裁判などはこれらの行為を医療犯罪として裁いた(医者裁判に概要)。また、裁判の結果を受け、医学的研究における被験者の意思と自由を保護する「ニュルンベルク綱領」が示された。

死体焼却施設

強制収容所では大量虐殺が行われたため大量の死体処理が問題になったが、この死体を無差別に大量火葬する施設がクルト・プリューファーのもとトップフ・ウント・ゼーネ社により建設された[7]

赤十字国際委員会(ICRC)とドイツ赤十字(DRK)

まずは「赤十字国際委員会(ICRC)」と「ドイツ赤十字(DRK)」[注 26]の違いを簡単にでも知る必要がある。ICRCは中立性を重視した赤十字組織で、世界中の紛争地域へ介入を行うことを目的とした国際機関であり、本部はスイスのジュネーブに置かれている。一方DRKは、ジュネーブ条約締約国のドイツに設けられた各国赤十字組織[注 27]であり、活動の中心はドイツ国内である。特に、戦時中の両者はまったくの別組織であり、ホロコーストを研究するにあたっては、どちらの赤十字が作成した資料かを見極める必要がある。

輝かしい歴史のなかの汚点 (ICRC)

ICRC(赤十字国際委員会)のエンブレム
ドイツに捕らわれた戦争捕虜と対面するICRC委員

スイス人技術者などは戦時中もドイツ国内を自由に移動でき、強制収容所内の細部についてはさておき、1938年頃より後にもたらされたドイツに関する情報は赤十字国際委員会(ICRC)が注視せざるを得ないものであった。

各強制収容所に数多くの援助物資を送り続けるが、ナチスの非人道的な行いの調査と実効的な手段による行動については消極的であった。理由として、本部の依拠するスイスと当事国ドイツが国境を接し、産業でも強く結びついていたことにより、永世中立国と言えどもナチスの動向には敏感にならざるを得ない状況であったこと、赤十字の活動には原則当事国の承諾が必要なため表立った非難は状況をさらに困難にすると考えられていたこと、さらにジュネーブ条約の条項に一般市民(文民)保護に関する規定がなかった[注 28]ことなどが挙げられる。

特にスイス国益に関する問題は大きな足かせであった。1942年当時、ICRC委員でもあったスイス大統領フィリップ・エッターは、断固たる態度を示すことに反対し、ICRC委員長カール・ヤーコプ・ブルクハルトは、ファシズムよりも共産主義拡大を恐れ、その防波堤となるナチスと国際社会の良き仲介者であろうとした(ブルクハルトがドイツ系スイス人であったことも関係)。このような状況下で強制収容所に送り込まれた視察員は、意図して作られた平和的な光景に惑わされることになる[注 29]

ICRCが実効的手段を執るようになったのは、ドイツの敗色が濃厚になり、いよいよ残りすべての被収容者を処刑しはじめようとした1945年から。主だった強制収容所にICRC委員を"常駐"させ監視できるようになったことで、それまで送り続けていた援助物資が被収容者に確実に届きはじめ、併せて消えかけた命も救われた。

1995年、ICRC委員長コルネリオ・ソマルガは、アウシュヴィッツ解放50年周年式典に出席するにあたり、当時の対応の誤りを認め遺憾の意を表明した[注 30]

ナチス党政権下のドイツに組み込まれた赤十字 (DRK)

赤十字の旗
党大会で講演するカール・エドゥアルトDRK総裁(1936)

1933年にイギリスの王族出身でナチス党員のカール・エドゥアルト元公爵がドイツ赤十字(DRK)の総裁職に(後に国会議員も兼任)、1937年にSS高級将校エルンスト・ロベルト・グラーヴィッツが総裁代行職にそれぞれ就任したことは、DRKがナチスまたはSSの一部局であることを象徴するものであり、後の組織改編を経て決定的となる。

赤十字の基本原則である「平等」が破棄されるとともに、ナチスの標榜する人種的な抑圧政策が持ち込まれた。強制収容所の人体実験や選別は、間接的に関係したというあいまいなものではなく、DRKの行為そのものであったと言える[注 31]

1945年4月、エルンスト・グラーヴィッツはベルリンが戦場になる中、家族を巻き添えにして手榴弾で自殺。カール・エドゥアルトは非ナチ化裁判で有罪となり、重い罰金を課せられるとともに、財産のほとんどをソ連に没収された。赤十字の崇高な理念に反するだけでなく、まさに利用していたことは、苦しい時代を生きた人々の信頼を著しく失墜させた。

解放

1944年暮れ、ソ連軍接近に伴い強制収容所および強制労働者の扱いが問題となる。11月には、SSの一部局「親衛隊人種及び移住本部」が「強制労働者を管理組織が独自判断で処刑するように」との通達を出している。これを受け産業界は、自らの手を汚すまいと強制労働者をSSに返還することを決めており、SS、産業界双方に「解放」という姿勢は見うけられない。

アウシュヴィッツ収容者は、なおも活動するドイツ本国の強制収容所に移送か、処刑のいずれかであった。実際は約7,500名が1945年1月27日の解放時にとどまっており、これはソ連軍の急速な接近による混乱、一部証言の「ドイツへ行くか残るか選ぶことができた」といったような処置[注 32]、さらには処刑や移送が間に合わなかったなどの可能性が考えられる。移送された被収容者は合計60,000人に上るとされるが、移送途中にも多くが命を落としている。移送で生き残った者は、別の強制収容所に入れられるだけのことで、実際の解放までに数ヵ月間待たなければならなかった。[注 33][注 34]


注釈

  1. ^ 「アウシュビッツ」と表記している日本の歴史教科書もある。たとえば、『中学社会 歴史』(教育出版株式会社。文部省検定済教科書。中学校社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号17教出・歴史762)p 255では「また, 各国のユダヤ人は, ユダヤ人であるという理由だけでアウシュビッツなどの強制収容所に入れられて虐殺された。」と記載されている。
  2. ^ 東部併合地域から全てのユダヤ人と300-400万人に及ぶポーランド系ユダヤ人を移送し、入れ替わりに20 万のドイツ人を入植させる計画。
  3. ^ アンネの日記」「ハンナのかばん」などが著名。
  4. ^ 前記の収容理由以外に、労働者の一般募集も行い、工場などへ派遣していた。労働力不足が顕著になってからは、募集のほかに、強制的に占領地の住民を連行するようになる。
  5. ^ 戦況が悪化して労働力の確保が難しくなると、人道的な観点からではなく、生産を落とさないために労働者の再生産について考慮されるようになるが、同時に食料自給も悪化しており、結局は、より厳しい状況に労働者はおかれるだけであった。
  6. ^ 終戦直後のソ連は「400万人が虐殺された」と発表したが、現在では誇張の可能性が高いと見るむきが強い。ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、東西冷戦終結後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められ、世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少したが、被収容者総数同様、確定的な数値の把握にはいたっていない
  7. ^ 持ち株会社のドイツ経済企業有限会社(DWB)、ドイツ装備品産業有限会社 (DAW)、ドイツ食糧試験所がSSの運営する企業。ドイツ食糧試験所はダッハウ強制収容所に調味料確保のためのハーブ栽培施設を作ったことでも知られる。
  8. ^ 1940年1月現在の工場数。
  9. ^ アウシュヴィッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。
  10. ^ 1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任はアルトゥール・リーベヘンシェル。さらにその後任で最後の所長はリヒャルト・ベーア(戦後、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で被告となるが収監中に死亡)。
  11. ^ 当初「ブナ収容所」と呼ばれていたが、1944年以降は「モノヴィッツ収容所」に改称。
  12. ^ 3年後に脱出し、アウシュヴィッツの証言者となったカジミェシ・アルビンも含まれていた。
  13. ^ 戦後、ユダヤ人がイーゲー・ファルベン社に対して起こした損害賠償と慰謝料を求める民事訴訟は1957年に和解が成立。和解金として3,000万マルクが(このうち2,700万マルクがユダヤ人団体に、300万マルクが非ユダヤ人強制労働者に)支払われている。
  14. ^ BASF社、バイエル社、ヘキスト社の3社に分割された。
  15. ^ 「正面」「正面を向き視線を(撮影者から見て)左上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。
  16. ^ 「Herbert, Geschichte der Ausländerpolitik, S.154.」では更に細かく分類している。「第一にドイツ人、続いて西欧労働者(フランス人市民労働者に続いてベルギー、オランダ人労働者)、そして続いてドイツと同盟あるいは従属関係にある南東ヨーロッパ出身労働者(ハンガリー、ルーマニア、スロヴェニア、セルヴィア、ギリシア、クロアチア)、次にチェコスロヴァキア(ベーメン、メーレン)出身労働者、そしてポーランド人、最後にソ連人、(1943年イタリア降伏後は)イタリア人、最下層にはユダヤ人が位置していた」。
  17. ^ 例外的なケースとしてフィリップ・ミューラーの件が挙げられる。彼自身の証言によれば1942年春から年末までゾンダーコマンドであったが、後に別の労働に移ることになり生き残ることができたとしている。彼はニュルンベルク裁判で証言台に立った。
  18. ^ 争いを避けるため被収容者間でパン屑の量まで計って配分したという証言もある[4]
  19. ^ 各労働者の労働力を3つのランク(ランク1. 一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下)いずれかに評価し、ランクによる配給制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による労働力確保の行き詰まりが挙げられる。
  20. ^ たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。
  21. ^ 後に聖人に列せられたマキシミリアノ・コルベ神父は、他人の身代わりとしてこの餓死牢に入っている。
  22. ^ 絞首刑には移動式の絞首刑台なども用いられた。見せしめによる精神的抑圧を第一の目的としていると言える。
  23. ^ 占領地にSSが赴き、ユダヤ人や政治犯を殺害するというもの。強制収容所の管理も同じSSが行っている点に注目すると、占領地での殺戮行為が強制収容所内に持ち込まれてもおかしくはない状況と言える。
  24. ^ ヘースの証言によると、クレマトリウム4と5には資材不足から換気設備が備え付けられていなかった。すべてのガス施設での作業にはガスマスクが必要であったとする証言もある。
  25. ^ または「ブンカー」とも呼ばれる。
  26. ^ バイエルン赤十字(BRK)もこれに含まれる。
  27. ^ 「日本赤十字東京支部」に概要
  28. ^ 1949年に改定(第4項)。
  29. ^ 元視察員のモーリス・ロッセルはBBCのインタビューに対し、強制収容所の状況を自らの安全を考慮した上で直接現地から"正直"に報告することの難しさを述べている。
  30. ^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューに対し、スイスの国政にかかわる人間がICRC委員であったことに問題があったとも述べている。
  31. ^ 1939年から1941年に実施されたT4作戦にも関与した。
  32. ^ ただし、ナチスはドイツ国内で他民族(スラブ人など)が労働することを許可しない傾向にあり、もしこのような処置があったとしてもすべての被収容者に対してとは考えにくい。また、当時からソ連の体制に対する恐怖が一般大衆に少なからずあったことも事実であり、自主的な選択はもちろん、強制収容所という特殊な環境下においてこの恐怖を利用してドイツ移送を誘導的に承諾させたとも考えられる(ストックホルム症候群)。
  33. ^ アウシュヴィッツなどの強制収容所から解放され帰還したソ連兵捕虜、一般ソ連人(ソ連邦に属する人々)の多くは、敵に協力した反逆者としてソ連によって教化施設(強制労働施設)に送られることになる。
  34. ^ 強制収容所に残り、ソ連軍に解放された人々についても必ずしも安全が保障されたわけではなかったとする証言もある。ソ連は解放から約ひと月の間、他の連合諸国がアウシュヴィッツに立ち入ることを許可しなかった。このことが後にさまざまな疑念を生むひとつの原因にもなる。

出典

  1. ^ 世界遺産アカデミー監修 (2012) 『すべてがわかる世界遺産大事典・上』マイナビ、p.23
  2. ^ a b 早乙女(1980)p.15
  3. ^ 早乙女(1980)p.32
  4. ^ 『アウシュビッツの沈黙』 花元潔 東海大学出版会 2008年
  5. ^ 『アウシュビッツ博物館案内』 中谷剛 凱風社 2005年
  6. ^ アウシュヴィッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」Archived 2007年12月17日, at the Wayback Machine.
  7. ^ フォルクハルト クニッゲ; 柴嵜 雅子 (2008). “「最終的解決」の技術者たち”. 国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要 21 (3). http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/. 
  8. ^ http://auschwitz.org/en/history/the-number-of-victims/ As a result of the inclusion of Auschwitz in the process of the mass extermination of the Jews, the number of deportees began to soar. About 197 thousand Jews were deported there in 1942, about 270 thousand the following year, and over 600 thousand in 1944, for a total of almost 1.1 million. Among them, about 200 thousand people were selected as capable of labor and registered as prisoners in the camp






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の関連用語

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS