SUBARU群馬製作所本工場とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > SUBARU群馬製作所本工場の意味・解説 

SUBARU群馬製作所本工場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:29 UTC 版)

スバル町」の記事における「SUBARU群馬製作所本工場」の解説

群馬製作所本工場は、群馬県太田市スバル町1-1にあるSUBARU自動車部門工場である。個別郵便番号として373-8555が充てられている。敷地面積635,000平方メートル借用面積1万4,000平方メートル外数)で、乗用車レヴォーグインプレッサXVWRXBRZトヨタ・86を含む)を生産している。従業員数は4,521人である(2022年6月時点)。 もともとはSUBARU前身である航空機メーカー中島飛行機の「太田工場」として、1934年昭和9年)に建設された。同社創業以来使用していた旧・太田工場(後の呑竜工場、現・SUBARU群馬製作所太田北工場太田市金山町27-1)が手狭になったため、新築移転したのである1934年2月20日起工式挙行。この場所は当時新田郡太田町東端にあたり低地であったことから、新田金山および焼山から採掘し土砂埋め立て行った同年11月には昭和天皇の行幸予定されていたことから、それに間に合わせるため昼夜突貫工事敢行同年11月1日竣工にこぎ着けた。そして11月16日工場訪問した昭和天皇中島知久平役員面会陸軍軍用機組立工場を視察中島飛行機の名を日本全国広め出来事となった当時太田工場太田本町通り面した南側間口30間(54メートル)の門を設け、その正面に「本館」を置き、その北側十数棟の工場並べていた。敷地面積75,000坪(247,500平方メートル、旧・太田工場の約5倍)、従業員数2,121であった。現在もなお残る「本館」は456坪(1,504.8平方メートル)の土地東西38間(68.4メートル)、南北12間(21.6メートル)、鉄筋コンクリート構造3階建てで、1階事務室および応接室2階重役室および武官室陸軍・海軍駐在)、中央広間玄関直上)、3階製図となっていた。上空から見下ろしたとき、ちょうど飛行機の形に見えるよう設計されている。 1937年昭和12年7月太田工場は「太田製作所」と改称し1938年昭和13年)には工場の拡張一段落した敷地面積225,000坪 = 75万平メートル従業員数2万4,000人)。当初陸・海両軍向けに軍用機製作していたが、工場の拡張限界迎えたこと、製造現場混乱避けたいこともあり、「小泉工場」(現・パナソニック東京製作所邑楽郡大泉町)を新設1941年昭和16年)までに海軍製作工程分離完了したその後戦局悪化し1944年昭和19年)にアメリカ軍による中島飛行機武蔵製作所への空襲開始され太田製作所もまた1945年昭和20年2月に4回の空襲さらされた。工場85パーセント破壊され死者101人、重傷36人、軽傷16人、飛行機324機が大破201機が中または小破した。政府同年3月2日、「航空機事業国営に関する件」を閣議決定し、太田製作所を「第一軍工廠」として国有化同年4月1日発足させた。しかし、材料人手の不足、水道交通、通信といったインフラ破壊により、工場分散化地下工場建設学徒勤労動員といった策を講じながらも大幅な減産余儀なくされ、終戦から2日後8月17日軍需大臣から第一軍工廠長官中島喜代宛て終戦処理命令通達された。接収され太田製作所には同年10月9日に950人が進駐し、「キャンプベンダー」と命名本館損傷少ないのは、アメリカ軍戦後進駐としての利用見越し意図的に爆撃目標から外していたためである。終戦までに太田製作所において製作され飛行機下記の通り九一式戦闘機 九〇式艦上戦闘機 九〇式水上偵察機 九七式戦闘機七式一号艦上攻撃機 一式戦闘機「隼」 一〇〇式重爆撃機呑竜二式戦闘機鍾馗四式戦闘機疾風特殊攻撃機「剣」 解体され中島飛行機富士産業富士重工業として再出発し、「ラビットスクーター」や大衆車スバル・360」といったヒット作世に送り出した1958年昭和33年7月、キャンプベンダー(元・中飛行機太田製作所)が日本返還され、市や県の支援のもと、1960年昭和35年8月に6億9,000万円富士重工業払い下げられた。富士重工業にとって、このタイミングでの工場払い下げスバル・360量産体制構築するにあたって絶好機会であった同年10月完成した新工場はこのとき「群馬製作所本工場」と命名され操業開始した1969年昭和44年)には矢島工場太田市庄屋町1-1)が、1983年昭和58年)には大泉工場元・中飛行機太田飛行場大泉町いずみ1-1-1)が操業開始本工場では軽自動車生産していたが、2012年平成24年2月29日を以て終了し矢島工場同様に登録車生産へと転換3月16日にはトヨタ自動車社長豊田章男招き同社共同開発したスポーツカーBRZトヨタ・86)のラインオフ式を挙行した。 2001年度に市が実施した町名等整理事業では、本工場の敷地が「スバル町」として成立前述)。当時ささやかれていた社名変更は、2017年平成29年4月1日付け実施され、「株式会社SUBARUとなった。その翌日4月2日には本工場で社名変更式典挙行社長吉永泰之群馬県知事大澤正明、元スキー選手スバルオーナー荻原次晴ら約400人が出席した工場周辺商店住民からは今回社名変更歓迎するとともに今後への期待の声が寄せられ一方慣れ親しんだ富士」の名が失われたことを寂しがる声も上がったさらなる飛躍矢先同年10月以降数々不祥事発覚群馬製作所行われてきた完成車検査における無資格検査燃費・排ガス・ブレーキ検査のデータ書き換えといった不正行為明らかになり、約53台ものリコールへと発展したこのため工場での生産一時減産し、検査工程見直し従業員教育拡充など再発防止への取り組みに当たることとなったその後2019年令和元年)秋の台風19号令和元年東日本台風)や、新型コロナウイルス感染症の流行により生産停止が相次ぎ太田市法人税収に大きく影を落とした

※この「SUBARU群馬製作所本工場」の解説は、「スバル町」の解説の一部です。
「SUBARU群馬製作所本工場」を含む「スバル町」の記事については、「スバル町」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「SUBARU群馬製作所本工場」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「SUBARU群馬製作所本工場」の関連用語

SUBARU群馬製作所本工場のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



SUBARU群馬製作所本工場のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのスバル町 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS