8ビットパソコン・BASICと群雄割拠の時代
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「パーソナルコンピュータ史」の記事における「8ビットパソコン・BASICと群雄割拠の時代」の解説
ワンボードマイコンは、実用性には程遠いものだったので、次の段階として商品としての体裁を整えた製品が次々と登場することになる。当初はこれらの製品も引き続き「マイコン」と呼ばれていたが、次第に「パーソナルコンピュータ」(パソコン)と呼ばれることが多くなっていった。本節では便宜上これらの製品を「(8ビット)パソコン」と記述する。 1977年9月、ベンチャー企業であるソード電算機システム(現 東芝パソコンシステム)がM200シリーズを発売。これはコンピュータ本体とキーボード・モニタ・5インチFDDなど、必要な周辺機器を一体化したオールインワン・コンピュータであった。BASICを採用していたが、価格は150万円とあまりにも高価でありパーソナルコンピュータ(個人所有の安価なコンピュータ)とはいえないものであった。これ以前にショップブランドではあるが、アスターインターナショナルよりキーボード・モニタ一体型のコスモターミナル-Dが発売されている。また、同年に月刊マイコンが創刊された(当時は隔月刊の出版元への直接注文であったが、創刊号8月、10月号を経て12月号より月刊誌となり、全国書店にて取り扱いを開始した)。この12月号の表紙がコスモターミナル-Dであった。同年11月、精工舎(現 セイコー)からSEIKO5700という業務用コンピュータが発売された。蛍光表示管やプリンタ・キーボード一体型の同機はフォートランを採用。しかし高価であったために、パーソナルという言葉のようには「一般化」はされておらず、研究開発の用途向けであったと思われる。 1980年ころの日本市場の2強。(左)シャープ MZ-80K(1978年)、(右)NEC PC-8001(1979年) その後、パーソナル用途向けのより安価なコンピュータが各社から発売される(これ以前の物は個人所有にはあまりにも高価でパーソナル用途のコンピュータではなかった)。シャープよりMZ-80K(1978年)、日立よりベーシックマスターMB-6880(1978年)、NECよりPC-8000シリーズ(1979年)が発売された。当初はこの3機種が8ビットパソコン初期の御三家と言われたが、ベーシックマスターレベル1・2は途中より遅れ気味となり(ただし完全に消えた訳ではなく一定のシェアはあった)1980年前後はPC-8001とMZ-80K/Cが人気を二分したと言っても過言ではない。 当時の日本で製造・販売されるパソコンとして主流であったのは、電源を入れればROMに書き込まれたBASICが起動する(立ち上がる)ROM-BASICマシンであった。これらはコンピュータを起動するとBASICインタプリタが起動され、コマンドプロンプトから直接BASICのコマンドを入力して処理を行うことができた。これらの機体の形状は Apple II にも似たキーボード一体型、ディスプレイ別置きであった。一方、シャープのMZシリーズはインタプリタをROMであえて持たずにクリーンコンピュータと称していたほか、ディスプレイも一体化して「オールインワン」として発売された。 1980年代初頭にはより高機能な8ビット機が発売された。NECはPC-8800シリーズ(1981年)、富士通がFM-8(1981年)、そのFM-8から周辺機能を削り、音源を搭載したFM-7(1982年)、シャープからはMZシリーズを開発した部署とは別のシャープテレビ事業部が開発したX1シリーズ(型番はCZ、1982年)が登場し市場を寡占化した。この頃には8ビット御三家とはこの3機種を指すようになった。また、後発のソニーは初めて3.5インチのフロッピーディスクを内蔵した機種を発売して話題を集めた。なお、3.5インチマイクロフロッピーディスクの規格とは別に松下電器・日立が3インチのコンパクトフロッピーディスクという規格を策定したが普及するには至らず、最終的にはソニーの推す3.5インチが主流となった。 この頃に他のメーカーから発売された機種は以下の通り。 日立はベーシックマスターレベル3(1980年) 初の6809+同MPU用MicrosoftBASIC搭載 東芝のパソピア(1981年) カシオ計算機からはFP-1100シリーズ(1982年) 10進演算など、数値演算に力を入れた機種 ソニー初のパソコンで、ビデオ機器との連動機能を持たせたSMC-70の発表(1982年11月) ソニーから初めて3.5インチのフロッピーディスクを内蔵したSMC-777が登場(1983年) 三菱からはMULTI-8(1983年) 多色化の先駆けとなった東芝のパソピア7(1983年) この頃の市場では、10万円を大きく切る低価格の機種と10万円を超える機種へと二極化が進んだ。低価格機種の代表としては、 ZX81(シンクレア)(1981年) ソード計算機(現 東芝パソコンシステム)のM5(1982年) トミー(現 タカラトミー)のぴゅう太(パソコン史上に残る稀有な日本語BASICを搭載していた)(1982年) 松下電器産業(現 パナソニック)からはJR-100(1981年)・JR-200(1982年)・JR-300(1983年) バンダイのRX-78 GUNDAM(1983年7月) などがあった。 ポケットコンピュータやハンドヘルドコンピュータと称する(のちのWindowsCE Handheld PCとは異なりA4判程度)携帯PCが一部メーカーから出たのもこの頃だった。 ポケットコンピュータの製品一覧 HC-20/40(エプソン、1982年) PC-8201(NEC/京セラ、1983年) TRS-80 model 100(タンディ/京セラ、1983年) JR-800(松下電器産業、1984年) この時代、特に日本国内のパソコン市場においては、日本語表示や日本語入力などの諸問題により8ビットパソコンを本格的なビジネス用途に使うには限界があった。しかし、その実用性はともかく趣味でパソコンを購入する人が増え、また来るべきコンピュータ時代に向け、学校教育にもパソコンが導入された ほか、これを買い与えられる児童もあった。この時代において、主に趣味のプログラミングやコンピュータゲームに供されたパソコンをホビーパソコンとも呼ぶ。 ホビー用途とは言っても、その価格は実用性の割に「飛び抜けて高価な玩具」でもあり、小中学生の子どもたちはコンピュータに興味があっても親から買って貰える子は少なかった。自ら「ナイコン族」と呼び、当時無料でデモ機を設置し使用させてくれた電器店に日曜日には朝早くから並んでデモ機を借りて遊んでいる子どもたちも多かった。多くは『マイコンBASICマガジン』などのプログラム投稿誌のプログラムを入力してゲームを楽しんでいた。それらのゲームをカセットテープに保存し、データを交換しあいながら保持ゲーム数を競っていた。電器店としては、子どもたちが簡単に使っている姿を見せることで大人たちの購買意欲をそそらせ、お互いに持ちつ持たれつの関係が成り立っていた。 このような社会背景に誘われその他の家電・コンピュータ・電卓・時計等の様々な製品を扱うメーカーもマイコン事業に進出したが、後発メーカーは既存のソフトウェア資産という基盤が無かったことから非常に苦戦を強いられることとなった。その中で、各社仕様を共通化することでシステム設計コストの低減とソフトウェア資産の共通化を目指したマイクロソフトとアスキーによるホームコンピュータ MSXの規格(1983年)が発表され、これらの苦戦した各社がこぞって参加した。 またホビーパソコンが人気を博した背景には各地に大小のゲームセンターができてギャラクシアンやドンキーコング、パックマンなどのゲームが人気となり、それらのゲームが移植されたことの影響も大きいと考えられる。 同時代の日本国産機に採用されていたCPUは、ごく初期においてモステクノロジーの6502やインテルの8080などの採用例が見られるものの、以後は8080の上位互換となるZ80に代表されるザイログ(Z-80A, Z-80B)、68系のモトローラ(6800, 6801, 6802, 6809, 6809E)およびそれらの互換・カスタムCPUが主流であった。ただし、このZ80自体とは8080を独自に拡張した8080の(上位)互換プロセッサである。これは、マイコンブームが日本において成立した時点でインテルの8080系は市場においてその主流を上位互換性を確保するZ80に奪われており、採用例が稀であったことに起因する。現在[いつ?]主流となっているインテルのCPUは日本においては16ビット時代になってパソコンに本格的に採用されることとなる。
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