1980年代から現在
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1980年代から、斜陽化する海運旅客事業を憂う声がある一方、クルーズ産業の興隆という新しいクルーズ客船の在り方が脚光を浴び始め、日本の経済成長に伴い、日本市場のクルーズ人口も拡大してきた。船舶の巨大化と、大桟橋そのものが設備更新時期を迎え、1989年から大桟橋改修事業が着手され、2002年に新たな大さん橋国際船客ターミナルが完成した。 設計は、国際コンペ660件の応募から、アレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィの設計が選定された。構造は地下1階地上2階建の鉄筋コンクリート造となっており、全床面積は44,000平方メートルとなっている。1階は約400台の普通車に対応する駐車場、2階は出入国ロビーとしてインフォメーション・発券所・船客待合場所・店舗・レストラン・CIQ施設を備える。 また 第1と第2ホールを備え、多目的に利用できるスペースを確保している。A、Bバースは延長450m、水深12mを備え、C、Dバースは延長450m、水深10〜11mとなっており3万トンクラスの客船は4隻、より大きな客船は同時2隻着岸が可能となった。バリアフリー型渡船橋4基装備により、今後のクルーズ客船増加に対応できる埠頭として整備された。 建物2Fや屋上床はブラジル産イペを使用したウッドデッキになっており、さらに天然芝の緑地を設けてある。接岸船舶からの眺望や周辺空間の眺望を遮らないことを考慮し、比較的低層構造となっている。2000年代から横浜市からも積極的な客船誘致を行い、2011年の年間客船入港数は全国港湾の中で9年連続の1位となった。大さん橋の稼働能力を活かすため、より一層のクルーズ客船寄港誘致を進め、港湾機能の維持拡大や港勢拡大を行い、乗船客および観光集客増に結び付け、地域経済の発展に寄与させることが課題となっている。 2017年1月には訪日クルーズ客の増加を見込み、国土交通省が官民連携により施設整備を行う「国際クルーズ拠点」の一つとして、横浜港の大さん橋と新港地区を選定した。大さん橋では郵船クルーズが旅客ターミナル内に待合ラウンジを整備する計画で、同社のクルーズ客船「飛鳥II」による岸壁の優先使用(15年〜20年間)が認められることとなった。その後2019年4月12日より上級船室利用者向けの「アスカラウンジ」として開業した。
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1980年代から現在
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「アイラビスタ (カリフォルニア州)」の記事における「1980年代から現在」の解説
アイラビスタは若者文化の発信元であり、常に多くのバンドがいた。1980年からこれらバンドの多くが、シド・ゴーレンの所有するセビル道路沿い6500にあった貯蔵ガレージをリハーサル空間として利用した。1980年代後半、オルターナティブ・ロックのロード・ザ・ウェット・スプロケットがそこでリハーサルを行い、元々ゴリータの出身だったが、アイラビスタで公演を行うことが多かった。地域出身で、そこそこの名声を得たその他のアーティストには、アニマル・リバレーション・オーケストラ、ジャック・ジョンソン、スティーブ・アオキ、ラグワゴン、スライビング・アイボリー、レベルーション、アグリー・キッド・ジョー、アイレーション、ポールン、ハニーホワイト、ブレークがいた。セビル道路の練習場は2012年に解体され、学生用の高級住宅が造られることになった。 アイラビスタは18歳から24歳の年齢層で埋められているが、この住民に対して商業的アメニティの数が少ない。近くにあるモール(カミノ・レアル・マーケットプレース)や、サンタバーバラのステート通り下流のような商業開発地が、アイラビスタの企業とそれに伴う税収を誘致しようと1980年代半ばから懸命に動いた。アイラビスタの経済開発は無視され、若者のベッドタウンのままであり、奇妙で幅広い商業地区があるだけだった。 2001年にゴリータ市が法人化されると、ゴリータ住民は新しい市の域内からアイラビスタを除外するよう地方機関形成委員会を説得することに成功した。郡の計画者が商業事業開発をゴリータに誘導したので、アイラビスタ住民は大半がゴリータで買い物することが指摘されている。アイラビスタ住民の団体がアイラビスタを新しいゴリータ市に含めるよう提案したが、地方機関形成委員会の委員長や執行役員から強い反対があった。地方機関形成委員会はゴリータ市がアイラビスタの経済活動から税収が上がるようにしながら、アイラビスタのインフラについては責任が無い。サンタバーバラ郡もアイラビスタから税収を得ながら、アイラビスタを未編入のままに置いておくことに財政面からの関心がある。地方機関形成委員会執行役員が挙げたアイラビスタを除外した公式の理由は、政治的な実行不能生だった。ゴリータ・ラウンドテーブルが実施したゴリータを含めた広い範囲での世論調査のみが、アイラビスタを含む市制が住民投票を通るであろうことを示していた。 2001年に起きた最初のアイラビスタ虐殺事件は、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の新入生デイビッド・アッティアスが2月23日夜に、サバドタルド道路6500で自分の車を駐車中の車数台や歩行者にぶつけることで、4人の学生を殺害した事件だった。当初殺人4件、重大な過失のある車による故殺4件、薬物服用による運転での重罪4件で起訴されたが、後に法律上心神喪失だったことが分かった。 2014年4月5日、デルトピアと呼ばれる毎年開催される祭で、警官が背後から瓶の入った袋で頭を叩かれただけで、パーティに行く途中の者1人を逮捕した後、暴動が発生した。その後の警察の反応に対して集まった大衆が抗議し、警官に向かって物を投げ始めた者もいた。その夜が終わるまでに、100人近い人が逮捕された。 2014年5月23日、2回目の大量殺人事件が起こった(2014年アイラビスタ銃乱射事件)。加害者を含め7人が死亡し、13人が重軽傷を負った。加害者はサンタバーバラ・シティ・カレッジを中退した22歳のエリオット・ロジャーで、まず3人を自分のアパートで刺殺あるいは睡眠中に殺した後、近隣のソロリティ宿舎付近で拳銃の乱射を開始し、黒のBMWに乗って街を回りながら乱射を続け、合計3人を拳銃で殺し、自転車を撥ねるなどして合計13人に重軽傷を負わせた。事件現場はデリカテッセン、コンビニエンスストア、加害者のアパートなど合計10地点、12か所に上った。ロジャーはその日の殺人を予告したビデオをユーチューブに投稿しており、その中で自分を相手にしてくれなかった若い女性たちを非難していた。駐車されていた車に追突して停止したBMWにサンタバーバラ郡保安官事務所のデピュティたちが追いついた時には、ロジャーは頭部への銃弾によってすでに死亡しており、自殺したと見られている。
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