1980年代と1990年代 低迷と復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:11 UTC 版)
「パティ・プラヴォ」の記事における「1980年代と1990年代 低迷と復活」の解説
1980年、プレイボーイのイタリア版でヌードを披露するも、イタリアでのメディアから敵対的な反応を受けたこともあり、アメリカに移住する。 1982年にリリースされたアルバム『Cerchi(Circles)』はこれまでで最低の売上を記録した。このころを境に、彼女の人気は1980年代に大きく衰退し、リリースしたアルバムはチャートインしなくなる等彼女の以前の作品の商業的成功を収めることができなくなる。 1982年、アメリカ人ギタリストのジョン・エドワード・ジョンソンと結婚。 1984年、シングル 「Per una bambola( For a Doll)」はわずかにヒットし、サンレモ音楽祭で批評家賞を受賞したものの、アルバム『Occulte persuasioni』(隠された説得)は彼女のデビュー以来にリリースされた新作アルバムとしては初めてチャートインすることができなかった。 1985年に、Festivalbarでも演奏した曲「Menù」でわずかなヒットを収める。 1987年、再びサンレモ音楽祭に参加したが、彼女の曲「Pigramente signora(Lazily a Lady)」は人気を得ず、さらにダン・フォーゲルバーグの楽曲「To the Morning」を盗用したとして告発されてしまう。騒動は彼女のヴァージン・レコードとの新契約のキャンセルにつながることとなった。 1989年、アルバム『Oltre l'Eden...』をリリース、前作と同様にチャートインしなかったもの、ファンからは最高作品の1つと評価が高い。 1990年、サンレモ音楽祭で曲「Donna con te(A Woman with You)」を演奏する予定だったものの、イベントの直前に歌うことを拒否する騒動を起こす。その後、この歌はアンナ・オクサに渡され、フェスティバルで演奏された。同年、クラシックヒットの再録音のアルバムをリリースした。 1992年、大麻を所持していたとして逮捕される、その後3日で釈放された。 1994年に、中国でコンサートを行い、中国で演奏する最初のイタリア人アーティストとして歴史を作った。彼女の次のアルバム『Ideogrammi』は中国ですべて制作され、中国の音楽と文化にインスピレーションを受けた作風となっている。 1995年に、「I giorni dell'armonia」(調和の日)が、11年ぶりにイタリアのトップ20内にチャートインする。 1996年、音楽活動デビュー30周年を迎え、過去のヒット曲ツアーを行う。 1997年には再びサンレモ音楽祭に出演、演奏した「... E dimmi che non vuoi morire」(…そして私に死にたくないと言って)は評論家の賞を受賞し、投票コンテストで8位となる。その後発売したシングルはチャートで大成功を収め、イタリアで2位を獲得(これは1970年代以来の彼女の最高記録となる)すると、彼女の最初のライブ・アルバム『Bye Bye Patty』がトップ5にランクインするなど、1980年代の低迷を終わらせる人気復活の年となった。 1998年、アルバム『Notti guai elibertà(Nights, Trouble and Freedom)』では、イヴァノ・フォッサッティ、フランコ・バッティアート、ルーチョ・ダッラ等の有名なイタリアのソングライターと仕事をし、アルバムは20年ぶりにトップ10入りするヒットとなった。シングル「Les etrangers」(「Strangers」)と「Strada per un'altracittà(Road to Another City)」は、Festivalbarで演奏された。
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