1980年代の「革新懇」と「非核の政府」
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「日本共産党」の記事における「1980年代の「革新懇」と「非核の政府」」の解説
詳細は「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」を参照 1980年1月、社会党と公明党が、日本共産党排除を前提とした政権構想に合意した結果(社公合意)、社会党との連立を前提にしていた民主連合政府構想は実現性が遠のいた。このため1981年、平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会(全国革新懇)を結成し、「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」模索ではなく、「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、無党派との共同による新たな革新戦線を全国的に追求するとした。 しかしこれは、社会党と共産党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見る見解もあり、亀田得治(元参議院議員)、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員、歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長・高知県議)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多数参加しているにもかかわらず、具体的な選挙共闘としては愛知県、高知県などを除き余り大きな成果は得られていない。 革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され活動しているが、実態は党が名前を変えただけの組織である場合が多く、幅広い結集となっているとは言い難い。 なお、共産党が国政選挙で、他党や無所属の候補を推薦・支持・支援した例としては、田中美智子、安田純治、陶山圭之輔、喜屋武眞榮、西岡瑠璃子、川田悦子(以上無所属)、島袋宗康、仲本安一、糸数慶子(以上沖縄社会大衆党)らがおり、そのうち田中、安田は当選後、院内会派「日本共産党、革新共同」に入っている。 1980年代、日本共産党は「民主連合政府」のスローガンを事実上棚上げし、「非核の政府」という路線に切り替え、全国の地方公共団体で「非核平和都市宣言」条例の制定運動を行なった。これは、当時ソ連共産党が全世界的に展開していた「反核運動」と一定程度呼応するものであり、日本共産党とソ連共産党の一定の接近を意味した。だが、「非核の政府」には日本社会党が反対し、国政においては広がりを欠いた。 1989年1月1日の『しんぶん赤旗』の宮本顕治議長のインタビューを機に、党は事実上社会主義革命を棚上げし、二段階革命論に基づいて「資本主義のもとでの民主的改革」を強調するようになった。
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