1980年代とイランとの戦争
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「イラク空軍」の記事における「1980年代とイランとの戦争」の解説
詳細は「イラン・イラク戦争」を参照 「イラン・イラク戦争における航空戦」および「タンカー戦争」も参照 1980年秋から1990年夏にかけて、IQAFの航空機の数は332から1000を超えた。イラクのイラン侵攻前に、IQAFは近代的なミラージュF.1EQを16機フランスに要求し、東欧の同盟国から合計240機の新しい航空機やヘリコプターを受領中だった。1980年9月末にイラクがイランに侵攻した際にソ連とフランスはイラクへの追加の航空機の納入を停止したが、数か月後に再開した。 IQAFは、代わりに時代遅れのSu-20、MiG-21、MiG-23で戦わなければならなかった。MiG-21は部隊の主要な迎撃機であり、MiG-23は地上攻撃と迎撃に使用され[要出典]、Su-20は純粋な地上攻撃に用いられた。戦争初日、Tu-16/22、Su-20、MiG-23、MiG-21の計166-192機の編隊が、イラン空軍の10ヶ所の空軍基地に奇襲空襲を行い成功を収めた。この空爆で地上の多数の戦闘爆撃機を破壊する戦果を挙げたが、イラン空軍を打倒するには不十分だった。これらの空爆に対する報復として、イラン空軍は戦争が始まった翌日にカマン99作戦を開始した。 1981年後半、現代のミラージュF-1とソ連のMiG-25がイランに対して効果的だったことがすぐに明白になった。IQAFは、KH-22M/MP空対地ミサイルを装備したTu-22KD/KDP爆撃機、KH-23空対地ミサイル、Kh-25およびKh-58対レーダーミサイルを装備したMiG-25及びKh-29L/Tミサイルを搭載したMiG-23BNなどの東側の新たな兵器を利用し始めた。1983年、改良されたエグゾセ対応のミラージュF-1EQ5を待っているイラクを満足させるために、シュペルエタンダールが同国にリースされた。イランの石油タンカー艦隊(タンカー戦争を参照)と砲艦は、エグゾセ対艦ミサイルを装備した5機のシュペルエタンダールの手で深刻な被害を受けた。これらの内の1機は20ヶ月の戦闘使用中に失われ、4機は1985年にフランス海軍航空隊に返却された。 IQAFは一般的に空軍基地、軍事施設や工場、発電所、石油施設などの産業インフラを攻撃するだけでなく、テヘランおよびその他の主要なイランの都市を体系的に爆撃することにより、イランとの戦争で主要な役割を果たした(後に都市戦争と知られるようになった)。戦争の終わりに、軍隊と特殊作戦部隊と連携してIQAFはイランの最後の軍事攻撃のルート決めに重要な役割を果たした。(その時までにかつて主要だったイラン空軍の役割は、絶望的な状況での任務に限定され、イランの重要な石油ターミナル防衛などの重要なタスクを行っていた)。空軍はミラージュF-1でエグゾセミサイルを使用してタンカーや他の船を攻撃する役割も成功した。1987年5月17日には、イラクのF-1が誤ってアメリカのフリゲート艦「USS Stark」に2発のエグゾセ対艦ミサイルを発射し同艦を大破させ乗組員37人を殺害した。 1987年までにイラク空軍は、近代的な航空物流センター、航空基地、保守および修理施設、およびいくつかの生産能力を備えた大規模な近代的軍事インフラを保有していた。その時までに、空軍は4万人の男性で構成され、そのうち約1万人は防空司令部の一部であった。空軍の主要基地はタンムーズ(アル・タカダム)、アル・バクル(バラド)、アル・カーディーシーヤ(アル・アサード)、アリ空軍基地、サダム空軍基地(Qayarrah West空軍基地)にあり、バスラなどに他の大規模な基地が存在した。IQAFは、24の主要な作戦基地と30の分散基地、核強化シェルターを含む600の航空機シェルター、複数の誘導路・滑走路と共に運用された。イラクは、さまざまな種類の小規模飛行場(予備飛行場とヘリコプター飛行場)を123ヶ所保有していた。
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