1980年代の憲法危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:47 UTC 版)
「マルタの歴史」の記事における「1980年代の憲法危機」の解説
1981年の総選挙では、国民党(NP)が絶対多数を獲得したにもかかわらず、単一移譲式投票の下で労働党が議会の過半数を獲得し、ミントフが首相にとどまり、政治的危機を招いた。エドワルド・フェネク・アダミが率いる国民党は選挙結果を受け入れず、立法府の最初の数年間は議席を取らず、議会は国民の民主的意思を反映すべきであると要求するキャンペーンを展開した。しかし、労働党政権は5年間任期を全うした。1984年、ミントフは首相と党首を辞任し、カルメヌ・ミフスド・ボンニチを後継者に指名した。 ミフスド・ボンニチの時代は、政治的緊張と暴力に特徴づけられた時代だった。5年にわたる議論の末、フェネク・アダミは、ドム・ミントフの仲介で、カルメヌ・ミフスド・ボニチと憲法を改善することで合意に達した。憲法改正は投票により決定され、1987年1月に発効した。この改正により、絶対多数の票を得た政党が政権を担うために議会の議席の過半数を獲得することが保証されたのである。これにより、同年末に国民党が政権に復帰する道が開かれた。
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