1980年代の行進とデモ
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「フォーサイス郡 (ジョージア州)」の記事における「1980年代の行進とデモ」の解説
近年、人種的に多様な市民が、特に裕福な南部に入ってくるようになった。しかし、1990年代初期に入っても郡のイメージには人種的な緊張感が続いていた。1987年1月17日、カミングで公民権運動家の行進でこのことが取り上げられ、これに対抗してクー・クラックス・クラン支部(その会員の大半は郡民ではなかった)と行進に反対する人々の対抗デモがあった。「ニューヨーク・タイムズ」が1月18日に掲載した話に拠れば、4人の行進者が、互いに投げ合った石や瓶で軽傷をおった。反デモの参加者8人、全員白人が逮捕された。起訴理由は不法侵入と武器を隠し持っていたことだった。 当初この行進はフォーサイス郡民チャールズ・A・ブラックバーンが先導するはずだった。ブラックバーンは、自分が私立学校を所有運営するフォーサイス郡から人種差別のイメージを払拭することを望んだ。ブラックバーンは脅迫電話を受けた後にその計画を止めた。近隣郡の別の白人や州議会議員でアトランタのJ・E・マッキニー、アトランタ市政委員会委員のホセア・ウィリアムズが、その代役を務めた。翌週の1月24日、約2万人の公民権運動活動家がカミングを行進した。フォーサイス郡防衛同盟に招集された5千人以上の反デモ参加者は、約2千人の公安職員と州兵がいたこともあって、このときは暴力沙汰が起こらなかった。この政治デモに対して動員された警官の時間外手当について、フォーサイス郡は67万米ドルを払った。この出費について、デモ参加者の大半が郡外からの者達だったので、郡民の間に怒りの声が挙がった。2回目の行進に先立ちフォーサイス郡保安官ウェズリー・ウォルレイブンに行われたインタビューは、VS・ネイポールによる「南部の変わり目」に収められている。 このデモは1970年以降で国内では最大の公民権デモだと考えられている。6千人ほどの反デモ参加者のうち、66人が「許可無しのパレード」で逮捕され、1960年以降では最大の反公民権逮捕者数となった。この反デモは愛国運動と呼ばれ、地元配管工のマーク・ワッツが新しく組織化していた。最初の行進はフォーサイス郡が「黒人来訪者にその頭に太陽は降りさせないと警告した郡である」という繰り返された声明で口火を切られた。行進者は郡全域からバスで到着し、アトランタからキャラバンを形成し、1時間近いバスの経路に沿った高架橋では州兵の監視下に置かれた。行進者が到着したとき、カミング市民の大半はその日のために町を離れており、ある者は暴力を怖れたので家の窓を釘付けにしていた。行進者は数百人の武装州兵(黒人も多く入っていた)が並ぶ中、通りを緩り曲がり進んだ。目撃者に拠れば、2万人の参加者のうち少なくとも3分の2は白人だった。フォーサイス郡はパレード許可について多額の科料を課したが、1992年6月19日のアメリカ合衆国最高裁判所「フォーサイス郡対愛国運動事件」判決で、その実行を差し止められた。
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