飛行場建設以降の経緯
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「普天間飛行場」の記事における「飛行場建設以降の経緯」の解説
『宜野湾市史 第1巻通史編』第6章、FAC 6051 普天間飛行場 (「第8章 基地の概要 第1節 米軍の施設別状況」内『沖縄の米軍基地 平成20年3月』 P218-222 沖縄県基地対策課HP)等を参考に記述。墜落事故、移設問題などは別記。 1945年 - 沖縄戦の最中に、宜野湾一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、アメリカ陸軍工兵隊の発注により中頭郡宜野湾村(現・宜野湾市)の一部土地を接収し、プロペラ機時代としては破格の規模となる2,400m級の滑走路を持つ飛行場が建設された。沖縄戦自体は6月23日に組織的戦闘が終結したとされているが、建設は続けられた。当時の目的は日本本土決戦(連合軍側から見た場合ダウンフォール作戦)に備えるためであり、兵員及び物資の輸送に供することであった。 1945年10月9日 - 台風の直撃により、建設途中の沖縄の各軍事施設が打撃を受ける。 1948年~1949年 - リビー、デラ、グロリアの3台風が相次いで沖縄を直撃した。特に1949年6月のグロリア台風による沖縄米軍基地全体の損害は8000万ドルに達し、その原因は基地施設がカマボコ兵舎 に代表される簡易的な物が多く、天災に耐えるだけの恒久性を持っていないことにあった。これは戦後の軍事予算削減の影響を受けたものだったが、被害の大きさからより恒久的で台風や地震に耐えられる基地施設建設の機運が高まった 。 1950年 - 朝鮮戦争勃発に伴い沖縄の戦略的価値が見直され、基地の恒久化を目的とした建設が進められることとなった。普天間もこれによる影響を受けていく。 1950年12月 - GHQ下の極東軍司令部は1950年7月1日に遡及し、米軍が占領した民有地の借料の支払いを開始するように琉球民政府に指示。 1953年 - 滑走路が2,800メートル(9,000フィート)に延長され、ナイキミサイルが配備された。 1957年4月 - 陸軍から空軍へ管理を移管。 1960年5月 - 施設管理権がアメリカ空軍からアメリカ海兵隊へ移管された。民有地については、琉球政府が住民から土地を一括で借り上げたうえで米海兵隊に又貸しをし、軍用地料(基地・飛行場の土地賃借料)についてはアメリカ側から琉球政府に支払われたものを住民に分配する方法が採られた。 1969年11月4日 - 第1海兵航空団第36海兵航空群(36MAG)が司令部を本飛行場に移設。同航空群のホームベースとなる。 1971年7月5日 - 基地内で大規模な乱闘が発生。白人兵と黒人兵間の諍いが発展して兵舎、食堂で150人-200人が乱闘したもの。16人が負傷。 1972年5月15日 - 沖縄返還に合わせて事務が琉球政府から日本政府(防衛施設庁那覇防衛施設局)に引き継がれ、日米地位協定第二条第一項(a)に基づく米軍施設および区域と定義される。また、普天間海兵隊飛行場、普天間陸軍補助施設、普天間海兵隊飛行場通信所の3施設が統合され、普天間飛行場として提供施設、区域となる。 1974年2月26日 嘉手納飛行場にP-3Cが移駐されたことに伴い、その補助飛行場として使用するための滑走路を全面的に再整備。 1974年1月30日 - 第15回日米安全保障協議委員会にて一部の無条件返還および移設条件付返還を合意。 1976年10月 - ベトナム戦争終結後の海兵隊再編に伴い、上級司令部たる第1海兵航空団司令部が、岩国よりキャンプ・バトラー(中城村)に移駐し、機能強化が図られた。 1976年10月 - 返還予定の中原区から航空機誘導用レーダーを移設。 1977年3月31日 - 10.9haを返還(12月15日、代替施設として飛行場内に宿舎等を追加提供)。 1977年4月30日 - 0.3haを返還。 1977年9月30日 - 2.4haを返還。 1978年1月 - ハンビー飛行場の返還に伴って格納庫、駐機場、隊舎等を移設。1979年3月完成。 1980年 米兵、一部一般市民の犯罪に対抗して周辺住民が組織していた自警団制度が廃止。 1980年5月22日 - 格納庫等建物2600平方メートルを追加提供。 1981年7月18日 - 「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」に基づき第1種区域(住宅防音工事対象区域)を指定(4740世帯)。 1983年初頭 - 携帯SAMレッド・アイを装備する第1前線地域防空中隊(4個小隊で構成)が配備(同年末1個小隊を増強しスティンガーへ更新) 1983年9月 - 「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」に基づく第1種区域の2期工事開始。 1983年12月2日 - 宿舎等建物11500平方メートルを追加提供。 1985年1月31日 - 宜野湾市消防庁舎用地として0.7haを返還。 1986年10月2日 - 隊舎として建物5700平方メートル等を追加提供。 1987年4月16日 - 格納庫として建物5400平方メートル等を追加提供。 1990年5月 飛行運用要員と気象およびレーダー観測要員を収容するための新運用棟(1989年3月23日提供)が完成した。ほぼ同時期に整備格納庫(1989年10月26日提供)の増築も完成している。 1992年5月14日 - 道路用地等として1.5haを返還。 1992年7月12日 - 隊舎等として14000平方メートルを追加提供。 1996年6月30日 - 宜野湾市立普天間第二小学校校庭用地として0.9haを返還。 1996年9月26日 - 隊舎等として19000平方メートルを追加提供。 2000年 - 基地周辺の小学校において海兵隊員による英会話の実習を開始。 2002年 - 外部向け広報誌(フリーペーパー)『大きな輪 OKINAWA』を発行開始(在沖海兵隊ウェブサイトでダウンロード可能) 2014年7月15日 - 第152海兵給油輸送飛行隊(KC-130J空中給油機)が岩国航空基地(山口県岩国市)に移駐(在沖米軍、初の本土移駐)。 2018年3月 - 西普天間住宅地区51haを返還。 2020年12月 - 佐真下ゲート付近の土地約990㎡を返還。
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