阪急・オリックス時代
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1987年、横芝敬愛高校から阪急ブレーブスにドラフト1位で指名され入団。同期3位に最後の阪急所属選手・中嶋聡がいた。 1990年に速球を武器に一軍に定着し、主に中継ぎとして活躍。しかし、以降は制球に苦しみ、低迷が続いた。 1993年オフに馬場敏史とのトレードで福岡ダイエーホークスに移籍。
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阪急・オリックス時代
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1年目の1983年は主に二軍で河村健一郎バッテリーコーチに鍛えられて一軍出場は6試合に終わったが、秋季キャンプでは「バットを見るのが嫌になるくらい」振り込みを続け、フォームを改造。2年目の1984年には衰えを隠せなくなっていた中沢伸二から正捕手の座を奪い、最終的に98試合出場でリーグトップの守備率.992・盗塁阻止率.423をマーク。打撃では打率.287で83安打ながら22本塁打の好成績を残し、リードでも2桁勝利投手を4人送り出したほか、チーム防御率もリーグ唯一の3点台(3.72)を記録。「走ってこないかな」と手ぐすね引くほど強肩には自信があり、リードはエースの山田久志ら大ベテランに鍛えられた。山田とのバッテリーでは、主に山田が配球を考え、カーブのサインに対しては遅いカーブ、速いカーブと投げ分けた。リードの醍醐味を覚えたのが星野伸之とのバッテリーで、星野はMAX135kmのストレートにカーブ、フォークの3種類しかなかったが、西武の清原和博をして「星野と藤田のバッテリーは読みづらい」と言わしめている。同年のリーグ優勝に貢献して新人王・ベストナイン・ダイヤモンドグラブ賞を受賞し、その後も正捕手としてチームを支えた。外国人投手とバッテリーを組むことが多く、抑え投手のアニマル・レスリーから(スキンシップとして)パンチを食らうことも頻繁にあった。「アイツのハングリー精神には頭が下がる」と阪急首脳陣全員が認めるガッツマンで、殴られても蹴られても耐える姿に上田利治監督も岡田栄球団社長も「1発殴られて何点とか、査定する時にはプラスのポイントをつけなければいかんな」とシーズン中から口をそろえて慰謝料を約束したが、1986年オフの契約更改では点数に入っていなかった。藤田曰く「アニマルが投げる時はフォームも大きいし、意外と神経質だから神経もずい分使った。リードにも苦心しましたよ。それが認められなかったようで…」と複雑な表情を浮かべたが、当時12球団のレギュラー捕手は西武・伊東勤、巨人・山倉和博の3300万円を筆頭に2000万円台が当たり前であった。4年目とはいえ、藤田はレギュラー捕手としては12球団で一番薄給であった。欠場したのは僅か4試合で、シーズン中には右手の3針縫う怪我をし、バットが満足に振れなくても、スローイングができなくても、チームのためにと出場を続けても、評価は低かった。藤田は「他球団の捕手と比べてもあまりにも差がありすぎる。もう少し捕手の立場を理解してほしい」と訴え、「こうなったらアニマルに慰謝料でも請求しようかな」と半分冗談、半分本気で言い残して事務所を後にした。口約束とはいえ、監督、球団社長自ら慰謝料を用意するといった以上、査定担当者も見直しせざるを得なかった。2回目の交渉で前回より100万円多い1250万円を提示されようやくサインし、希望額に50万円足りなかったが、藤田は女房の苦労を分かってくれれば、それで良かった。3年目の1985年には土佐キャンプ初日で強擦プレーの練習中、弓岡敬二郎からの送球を落球。上田に「なにやっとるんじゃ」と激怒され、尻を左足で蹴り上げられている。1988年6月18日の南海戦(西宮)で吉田豊彦から日本プロ野球史上5人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つが、球団名がオリックスに変わった1989年は故障もあり、若手の中嶋聡に正捕手を奪われた。ただし、中嶋が正捕手となってからも、ガイ・ホフマンやドン・シュルジーが先発する時はスタメンに起用されていた。年々出場試合が減少し、1991年シーズン終了後に同じポジションの高田誠との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。藤田元司監督が3年越しのラブコールを送り、まとめた話であった。
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阪急・オリックス時代
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阪神やロッテオリオンズも獲得を検討していたが、1984年度ドラフト会議にて阪急ブレーブスから4位指名を受け、投手として入団。1年目と2年目はウエスタン・リーグで登板する一方、野手としても2年目に36試合出場している。1986年シーズンオフに就任した打撃コーチの水谷実雄の勧めで打者に専念することを決め、秋季キャンプではマンツーマンの厳しい練習を受けた。 3年目の1987年シーズンは8月30日の対広島戦で当時のウエスタン・リーグ新記録となる21本塁打を記録、8月31日に昇格した一軍でも4本塁打を放つ。翌1988年シーズンは一軍での出場こそ減ったものの二軍で打率3割を記録した。しかし、同年のシーズンオフに球団がオリックスに売却され打撃コーチの水谷が退団すると、打撃が低迷、一軍と二軍の往復が続く。その後1990年シーズンオフに松永浩美から助言を得て右肩の開かない打撃フォームを習得。 1991年シーズンは前年のシーズンオフに監督に就任した土井正三の積極的な起用により123試合に出場して23本塁打を放っている。同年のシーズン限りでブーマー・ウェルズが退団するとその背番号44を引き継いだ。 1992年シーズンは5月27日の対日本ハム戦で3打席連続本塁打で6打点を挙げ、6月4日の対近鉄戦で当時のプロ野球記録タイとなる8試合連続長打を達成するなどの活躍を見せる。特に6月は打率.351、8本塁打、18打点の成績で初の月間MVPも受賞した。もっとも、チーム90試合目に28号本塁打を放ってホームラン王争いのトップを走っていたものの、残り40試合では1本塁打に終わる。それでも同年はオールスターゲームに初出場、シーズン通算では打率.297、29本塁打という自己最高の数字を残してベストナインに初めて選ばれた。同年は日米野球にも出場し、オフに最初の結婚をしている。 2800万円増の年俸4600万円(推定)で迎えた1993年シーズンは松永がトレードでチームを去ったこともあり、オールスターゲームには出場したものの腰痛に苦しみ成績が低迷。1994年シーズンは3月25日のヤクルトとのオープン戦前の守備練習中に誤ってボールを踏んでしまい、右足くるぶし上部を骨折し、開幕から出遅れた。オールスターゲームにも選出されたが、左根性座骨神経痛で直前に登録を抹消されており、出場を辞退。更に8月20日の対西武戦の8回に打席でスイングした際に左手有鈎骨を骨折。以降は治療に専念し、同年のシーズンは76試合の出場にとどまり規定打席にも到達しなかった。また、同年のシーズンに監督に就任した仰木彬のスタメンを頻繁に変える戦術になじめず、1995年頃からトレードを希望していたという。 1995年シーズンは日本人の長距離砲として藤井康雄と共に復活を期待され、キャンプではコーチの中西太からスイングを評価されている。イチローや田口壮の台頭もあり、徐々に出場機会が減った。1995年と1996年の日本シリーズでは共にノーヒットに終わっている。1997年シーズンオフには500万円減の年俸4000万円で契約を更改。翌1998年シーズンオフに松元秀一郎との交換トレードでヤクルトスワローズへ移籍。
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