第5編の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)
楊朱不人気。ここに筆者の研究に依る彼の思想を紹介する。 楊朱は決して冷酷な打算的利己主義者ではない。彼は確かに非常に感じ易い情熱の人であったに相違ない。普通の者ならば何ともなく済ます世間の矛盾や迷妄に、彼は非常な感動を覚えた人である。彼はこの世相に関して厭世的な情調を催すことが多かった。加うるに宛も彼の際会した時代は春秋の末から戦国の初に当たる。周室の統治権は全く頽廃して、諸侯は四方に割拠し、陰謀譎詐あらゆる人間の悪徳を竭し、人は皆俗悪なる功利的思想のためにその霊性の生活を破滅せしめて顧みぬ有様である。偶々それを救わんとする儒家の説や墨子の説も、或いは徒に外面的規制に拘泥してその魂を失い、或いは美名の下に内容の空疎を思わずして偽善者となる弊風が著しかった。そこで彼はかかる自己欺瞞的、結局は人間の自殺的行為から自覚して、全的生活に帰るために慨然として如上の思想に反抗したのである。人は彼を社会生活の否定者、独善主義者の如く論ずるが、筆者の見るところでは決してそうではない。彼もまた社会生活に於いて大いに感悟するところがあって、この社会を如何にすべきかの問題を熱心に考えたのである。老子は楊子に向かって「お前には慢心がある。他に拮抗せんとする傲岸の気に溢れて居る。それでは世の中が治まるものではない。もっと内に徳を養うて、総てを包容する、所謂「愚」にならねばならぬ」と諭した。彼は情熱に強いあまり、往々にして反抗に燃えた。しかるに反抗は往々両者の意地を煽って、反抗のために反抗を事とするようになり、結局彼もまた全体の通観を失い、部分の捕捉と強調とのために生活の顚倒をきたすこととなる。老子のこの言葉に彼は懼然として退いた。即ち彼は真理の前に極めて柔順であったのである。純一に、無邪気に、端的に、内部的衝動に基づく生命直流の世界を建設すべく、深くその自我に沈潜して往ったのは確かに老子の大いなる感化であると思う。 楊子の根本思想の一は自然に帰れである。彼は当時の社会状態の欠点を以て、人間の本性、自由な自然の状態を遠ざかって、人工的、非自然的に失した点に在ることを痛感した。彼は、人間の本性に対して頗る楽観的な思想を有ち、自然は元来人間を善きもの、幸福なるものに造ったのであるが、それを不自然な社会制度、技巧的な人間の生活のために、こんな惨めな悪いものが現出されて了った。従ってこの状態を改善するには、在来の不自然的技巧的な作為を脱して、人間自然の原始的状態に先ず還らねばならない。彼はこの自然主義的思想に立脚して、快楽説を演繹して往った。人間の最も根本的な衝動、天賦の性、本能は快楽に向けられて居る。快楽を取るは性に順うゆえんである。しかしながら我等の生は個々の快楽に存しない。生を通じて全的に快なる、即ちエピキュリアンのいわゆる快に充てる生活こそ我等の生である。賢者は決してあらゆる快楽を貪るものではない。快楽の追求には自ずから制限がある。制限を超えて快楽を追求すれば、必ず生の破綻を惹起することを免れない。「飽くなきの性は陰陽の蠧」である。また快楽にはそれぞれの質的差別があって、彼の快楽は必ずしも我に快楽では無い。要は常に全的生活に即して本能に順うに在る。これらの思想は明らかに老子の影響を思わせるものである。即ちこの思想は軈て必然的に静的に帰着して来ねばならない。全的生活に即して本能に順う――至楽の境涯とは如何なるものか。快楽は要求の満足に生じ、充たされぬ要求はいつも不快を生じ、これを充すは快である。しかし、快なるものは根本的に不快と関連したものである。不快が根柢に存在し、これが無意識に脅迫するところに快を求めるのである。ゆえにいわゆる快は頗る不純の快と言わざるを得ない。純粋なる快は是の如き半面の不快の予想から脱落したものでなければならない。それは遡っていわゆる快と不快との原因たる欲求そのものをなくし、従ってそれから起こる不快の発生を不可能ならしむるに在る。この快は動的のものではなくて静的のものである。かかる純粋なる快を至楽という。恬澹無欲な心の平静を以て快の最も純粋な高い境地とする。 楊子が自然主義的思想に基づいて、快楽説と並んで主張したものは私有観念の擺脱である。彼は一切万有を自然の事実と観じた。総ての存在は自然の事実なるがゆえに、そこに私有という観念の立つ理由は無い。人は自然に象って五常の徳性を具備して居る万物の最も進化したものである。しかし、爪や牙の如き鋭利な武器なく、敵を防ぐほど丈夫な皮膚もなく、走ることも遅く、寒暑を防ぐ羽も毛もない。是非とも外物を利用してその生を遂げねばならぬ。それは智のお蔭で、腕力の及ぶところではない。ただこの身体も本来我が有ではない。自然の存在である。物もまた我が有ではない。それも我に存在する以上これを排斥する理由はない。身体があって生があり、物有って生も存続するのであるから、自然の存在には何一つ無意義なものはないのである。既に存在する身は全うすべきものではあるが、これを我が有と思ってはならない。物の我に存在するも拒みはせぬが、これを我が有と思ってはならない。もし物と身とを以て我が有とするならば、そは実に自然に反する行為、私竊の行為である。聖人とは是の輩である。これに反して、この身この物を以て自然の存在と観じ、我が身を無身に付し、我が物を無物に付する人はこれを称して至人――至り至れる者とするのである。(列子楊朱篇)私有という観念がすでに人間の自然に対する背反、堕落であると楊子は思惟した。楊朱はかく私という観念を去って、自然に帰ろうとしたために、生死を煩うことなどは彼にとって大いなる迷妄であった。「万物の生存中は各々異なった状態に在るが、死ねば皆同一である。聖賢貴賤も人間の力では如何することもできず、死んで空しくなることもまた人間の力以上の事実である。我という観念に着すればこそ種々な煩悩も生ずるが、一度総てを自然の事実と達観すれば、生も死も賢も愚も貴も賤も、別に彼是言うことはない。生きて居る間だけが問題なので、死後のことは最早論ずるに足りない。(列子楊朱篇)楊子に取って死後の祭祀の問題などは全く念頭に置くに足りなかった。彼は純乎として生死を大自然に附し、その間に主観を挟むまいとするのである。彼に取って主観の働くのは現に生きて居る間だけである。我が生なるものも畢竟自然の一部分なのであるから、我が生も固より自然に従って生きねばならぬ。我が生の「我が」とは何等特別の意味を有たぬ。我が生なるがゆえに、我が勝手に生の準則を立てて、それに従って生きて行こうとするのは、要するに自然の諧調を破るもので、我の破滅である。自然は我に本能を与えて居る。その本能に従って、この生を円満に了するのが即ち自然の道である。そしてその本能は明らかに快に向かって流れて居る。ここに楊子の快楽主義が成立ち、またその快楽主義が現世主義と貶される理由がある。 楊朱自愛説。一切を自然の事実と観て、そこに私有観念を挟むことを排斥した彼は社会の構成もまた自然の事実と観た。社会は個々の人間が相寄り相約して組織したものではない。社会もまた自然が人間を造ることに依って自ら成立せしめた一実在せある。各人は草木と同様に、造物以外何者にも負うものではない。その享けたる生を生きて、本能に従ってその生を了し、至楽の生活――全き快楽の生活をなせば好いのである。各人がその道を誤らぬときは、社会はその間に自ら推移してゆく。何も各人が社会を指導し、これに貢献するに当たらない。また社会が個人の力で左右されるものならともかく、社会の推移は個人の力の能く左右するところではない。楊子は各人の社会奉仕を否定すると同時に、また各人の社会への依存をも排斥した。社会に依存するのは畢竟他人に自己の生活を補助して貰うことである。要するに自己が幾分か他を害うのであるから、そこに自然の秩序が紊れてくる。自然は一つ一つに生を与えて、これをして独立にその生を了せしめるようにしてある。即ち彼はこの社会に於る相互扶助の関係を認めなかったのである。我はただ我独り生きる。それが正しき自然の理法である。ゆえに不徹底な社会奉仕主義、卑劣な功利主義の前には、苟も一毛といえども自己を枉げることはしない。楊子はまた伯成子高のような一種の超人、彼及び彼の徒のいわゆる至人――至至者を立てて居る。その至人の崇拝は、神聖なる無意識の偉人、抱朴的超人を讃美して居る。そして、社会に就いても、かくの如き合自然的自我主義者の包摂に成る社会を予想して、全然人間の社会そのものの存在を否定しては居ない。あらゆる人が皆徹底した合自然的自我主義者となるときこそ、却って人間の世界の嫉妬、反噬、闘争、偽善、その他一切の悪徳消滅して、円満な平和な社会が実現されるであろうと、甚だ漠然たるものであるがとにかく予想して居る。彼はニーチェの如き超人の支配に服する世界ではなくて、各人皆至至者の世界、非支配関係の円満具足なる世界を夢見たのである。我の権威を重んじ、悠々自適の境涯を尊ぶ者は、必然に外界に拘泥する生活――自我の無い生活を排斥する。遁人と順民との説。「人間がいつまでも齷齪して安立を得ない原因は長寿、世間の意向、地位、財貨の4つの欲望である。欲望のために、人は死を恐れ、世間を恐れ、法令を恐れる。これを称して遁人というのである。是の如き人に在っては、その生活を動かす力が外物に在る。これに反して、生死を自然の事実と観れば、何等長寿を羨むことは無い。貴賤の差別を超脱したならば、世間の尊敬を羨むわけも無い。・威張る者が無ければ、固より地位に憧憬れることも無い。また富を貪らなければ、財貨を羨むことも無い。是の如き人はこれを順民と名付ける。相対的立場を離るるがゆえに、生活の中心は内に在る。」遁人とは、自然の道理から逃遁した人間である。順民は自然の道理に順応した人間である。自然に帰る第一歩は本能の正しき意義の自覚である。それを極めて彼は誇張して、本能的生活の極端なる場合を反動的に推称した。春秋末から戦国へかけての乱脈な非人道的時代に出でて、精神の低級な、心情の野卑な、動機の不純な功利主義、無自覚で固陋な外面的道徳の蔓延に痛烈な反感を懐いて、自我の価値と権威とを恢復しようとしたのである。ただその叛逆的精神の情熱と、厭世思想のために極端に走った議論が、予想外の誤解と――彼はそうなることを予想していた――痛烈な攻撃とを生じた。
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