生産の歴史とは? わかりやすく解説

生産の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 05:01 UTC 版)

雑穀」の記事における「生産の歴史」の解説

中尾佐助は『栽培植物農耕起源』で、バビロフマードックらの研究元に紀元前5000年から4000年頃に西アフリカニジェール川流域マンデ族(英語版が行い、後東アフリカから東アジア伝播した農耕文化体系とし、栽培法似ていることと、シコクビエ呼ばれる雑穀が、いわゆる稲作文化圏で栽培されていることから、「『稲作文化』という独立した農耕文化存在しない」と主張している。また植物考古学者呼ばれる専門的な考古学者も、遺跡から見つかった炭化した穀物相対的な豊富さなどのデータによって、雑穀栽培原始時代、特に中国北部朝鮮半島ではコメよりも広く普及していたという仮説立てている。 キビアワは、中国新石器時代初期には重要な作物であった例えば、中国における雑穀栽培最古痕跡は磁山(北部)と河姆渡南部)において発見されている。磁山時代紀元前7000年から5000年推測され竪穴式住居貯蔵用の穴、土器農耕用いられたと考えられる石器および炭化したアワ含んでいる。4000年前の、アワキビから作られた麺が入っている保存状態良好なボウルが、中国喇家遺跡見つかった。なお、収穫したキビ基準重さの単位作られ、やがてこれが通貨単位ともなった(「両」を参照)。 植物考古学者は、朝鮮半島において、中期櫛文土器時代紀元前3500から2000年頃)と推定される雑穀農耕痕跡発見している。雑穀は、無文土器時代紀元前1500から300年頃)の集約的複合的な農業においても引き続き重要な要素であったキビヒエなどの雑穀及びその原種日本でも紀元前4000年以降縄文時代栽培されていた。デンマークユトランド半島見つかったHaraldskar Woman分析に基づくと、少なくとも鉄器時代にはヨーロッパ北部でも雑穀利用されていたようである。 雑穀に関する主要な研究国際乾燥熱帯作物研究所および米国農務省農業研究局によって行われている。

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生産の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 16:59 UTC 版)

ニホンハッカ」の記事における「生産の歴史」の解説

日本では江戸時代後期天保年間越後国塩沢現在の新潟県南魚沼市)で薄荷油とっていたことが記録されている。同地には戦国大名上杉謙信薬草として愛用したという伝説も残る。換金作物として、安政年間岡山県広島県栽培始まった明治初期にかけて、主産地山形県移った後、移住者によって北海道生産始まった1890年代には、山形出身石山伝兵衛旭川市で、会津若松薬種商だった渡部精司が北見国湧別村四線(現・紋別郡湧別町)で、山形出身小山田利七が湧別村学田農場(のち遠軽村、現・紋別郡遠軽町)で、それぞれ本格的なハッカ栽培を手がけた。 その後野付牛屯田兵伊東伝兵衛らが、屯田兵解隊前後1902年野付牛(のち野付牛町、現・北見市)でハッカ栽培開始反収の高さから一般開拓農家注目集め網走管内一円爆発的に作付面積拡大した明治から大正期にかけては、国内外から集まった民間業者生産農家回って買い付ける取引形態続いたが、投機的な取引が盛んで、業者農家間のトラブル頻発した昭和入りそれまで取り扱っていた農産物価格低下直面した北海道信用購買販売組合聯合会(現・ホクレン農業協同組合連合会)が、ハッカ安定的な高値買い付け求め農家要望を受け、民間業者に代わって取引進出した北聯1932年ハッカ栽培盛んだった遠軽村に「北見薄荷工場」の建設計画したが、工場用地寄付応じる形で野付牛町予定地を変更翌年工場完成した操業5年目1938年同工場取卸油は、当時世界の生産量の7割を占めるまでに至ったが、日中戦争激化に伴う国の統制強化で、大規模な減反余儀なくされ、一時生産途絶えた第二次世界大戦後は、北見市中心に23市町村農家薄荷耕作組合結成朝鮮戦争影響米国向けの需要増え1950年頃から急速に作付面積拡大した1951年以降、収油量や芳香性の向上を目指し北海道農業試験場遠軽試験地遠軽町)で寒地品種8品種岡山県農業試験場倉敷はっか分場岡山県倉敷市)で暖地品種4品種開発されそれぞれの地域普及した。特に「ほくと」は、現在でも園芸店販売されている。 やがてインドブラジル産の安価なハッカ押されて、日本での生産衰退1960年代以降合成ハッカ登場1971年ハッカ輸入自由化でほぼ消滅したホクレン北見薄荷工場も、1983年ハッカ輸入関税引き下げのあおりを受け、同年閉鎖した網走管内では、紋別郡滝上町札久留地区などで、数軒の農家生産続けている。また岡山県矢掛町倉敷市前述新潟県南魚沼市でも少量ながら栽培復活試みられている。日本ハッカ栽培縮小し人件費の安い国からの輸入シフトしたのは、乾燥精製だけでなく、地中張った根から春に芽吹く場所が予見できないため、畑の雑草取り手間がかかるためである。その労苦を、北海道出身歌人金子きみは「薄荷刈り 編んで吊るして乾かして 搾油作業徹夜でかかる」と短歌詠んでいる(歌集分際所収)。 北見市は、北見薄荷工場旧事務所北見ハッカ記念館として改装し保存しているほか、同市仁頃地区ハッカ畑を設けたハッカ公園」を造成公園ハッカ原料とした製品づくりにも取り組んでいる。公園内には昭和初期ハッカ大財産を成した商人五十嵐弥一邸宅ハッカ御殿」を移設し、一刀彫豪華な欄間などの贅沢さで、当時隆盛を今に伝えている。 このほか、網走管内各地郷土資料館で、それぞれの地域使われハッカ蒸留釜などの資料を見ることができる。

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