生産の歴史
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中尾佐助は『栽培植物と農耕の起源』で、バビロフやマードックらの研究を元に、紀元前5000年から4000年頃に西アフリカのニジェール川流域でマンデ族(英語版)が行い、後東アフリカから東アジアへ伝播した農耕文化体系とし、栽培法が似ていることと、シコクビエと呼ばれる雑穀が、いわゆる稲作文化圏で栽培されていることから、「『稲作文化』という独立した農耕文化は存在しない」と主張している。また植物考古学者と呼ばれる専門的な考古学者も、遺跡から見つかった炭化した穀物の相対的な豊富さなどのデータによって、雑穀栽培は原始時代、特に中国北部と朝鮮半島ではコメよりも広く普及していたという仮説を立てている。 キビとアワは、中国の新石器時代初期には重要な作物であった。例えば、中国における雑穀栽培の最古の痕跡は磁山(北部)と河姆渡(南部)において発見されている。磁山時代は紀元前7000年から5000年と推測され、竪穴式住居、貯蔵用の穴、土器、農耕に用いられたと考えられる石器および炭化したアワを含んでいる。4000年前の、アワとキビから作られた麺が入っている保存状態の良好なボウルが、中国の喇家遺跡で見つかった。なお、収穫したキビを基準に重さの単位が作られ、やがてこれが通貨の単位ともなった(「両」を参照)。 植物考古学者は、朝鮮半島において、中期櫛文土器時代(紀元前3500から2000年頃)と推定される雑穀農耕の痕跡を発見している。雑穀は、無文土器時代(紀元前1500から300年頃)の集約的で複合的な農業においても引き続き重要な要素であった。キビやヒエなどの雑穀及びその原種は日本でも紀元前4000年以降の縄文時代に栽培されていた。デンマークのユトランド半島で見つかったHaraldskar Womanの分析に基づくと、少なくとも鉄器時代にはヨーロッパ北部でも雑穀が利用されていたようである。 雑穀に関する主要な研究は国際半乾燥熱帯作物研究所および米国農務省農業研究局によって行われている。
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生産の歴史
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日本では、江戸時代後期の天保年間、越後国塩沢(現在の新潟県南魚沼市)で薄荷油をとっていたことが記録されている。同地には戦国大名・上杉謙信が薬草として愛用したという伝説も残る。換金作物として、安政年間に岡山県や広島県で栽培が始まった。 明治初期にかけて、主産地が山形県に移った後、移住者によって北海道で生産が始まった。1890年代には、山形出身の石山伝兵衛が旭川市で、会津若松の薬種商だった渡部精司が北見国湧別村四線(現・紋別郡湧別町)で、山形出身の小山田利七が湧別村学田農場(のち遠軽村、現・紋別郡遠軽町)で、それぞれ本格的なハッカ栽培を手がけた。 その後、野付牛屯田兵の伊東伝兵衛らが、屯田兵解隊前後の1902年、野付牛村(のち野付牛町、現・北見市)でハッカ栽培を開始。反収の高さから一般の開拓農家の注目を集め、網走管内一円で爆発的に作付面積が拡大した。 明治から大正期にかけては、国内外から集まった民間業者が生産農家を回って買い付ける取引形態が続いたが、投機的な取引が盛んで、業者と農家間のトラブルも頻発した。 昭和に入り、それまで取り扱っていた農産物の価格低下に直面した北海道信用購買販売組合聯合会(現・ホクレン農業協同組合連合会)が、ハッカの安定的な高値買い付けを求める農家の要望を受け、民間業者に代わって取引に進出した。 北聯は1932年、ハッカ栽培が盛んだった遠軽村に「北見薄荷工場」の建設を計画したが、工場用地寄付に応じる形で野付牛町に予定地を変更。翌年工場が完成した。操業5年目の1938年の同工場取卸油は、当時の世界の生産量の7割を占めるまでに至ったが、日中戦争の激化に伴う国の統制強化で、大規模な減反を余儀なくされ、一時生産が途絶えた。 第二次世界大戦後は、北見市を中心に23市町村の農家が薄荷耕作組合を結成。朝鮮戦争の影響で米国向けの需要が増え、1950年頃から急速に作付面積が拡大した。1951年以降、収油量や芳香性の向上を目指し、北海道農業試験場遠軽試験地(遠軽町)で寒地品種8品種、岡山県農業試験場倉敷はっか分場(岡山県倉敷市)で暖地品種4品種が開発され、それぞれの地域で普及した。特に「ほくと」は、現在でも園芸店で販売されている。 やがてインドやブラジル産の安価なハッカに押されて、日本での生産は衰退。1960年代以降の合成ハッカ登場、1971年のハッカ輸入自由化でほぼ消滅した。ホクレン北見薄荷工場も、1983年のハッカ輸入関税引き下げのあおりを受け、同年閉鎖した。 網走管内では、紋別郡滝上町札久留地区などで、数軒の農家が生産を続けている。また岡山県矢掛町、倉敷市や前述の新潟県南魚沼市でも少量ながら栽培復活が試みられている。日本でハッカ栽培が縮小し、人件費の安い国からの輸入にシフトしたのは、乾燥や精製だけでなく、地中に張った根から春に芽吹く場所が予見できないため、畑の雑草取りに手間がかかるためである。その労苦を、北海道出身の歌人・金子きみは「薄荷刈り 編んで吊るして乾かして 搾油作業に徹夜でかかる」と短歌に詠んでいる(歌集『草の分際』所収)。 北見市は、北見薄荷工場の旧事務所を北見ハッカ記念館として改装し保存しているほか、同市仁頃地区にハッカ畑を設けた「ハッカ公園」を造成。公園産ハッカを原料とした製品づくりにも取り組んでいる。公園内には昭和初期にハッカで大財産を成した商人、五十嵐弥一の邸宅「ハッカ御殿」を移設し、一刀彫の豪華な欄間などの贅沢さで、当時の隆盛を今に伝えている。 このほか、網走管内各地の郷土資料館で、それぞれの地域で使われたハッカ蒸留釜などの資料を見ることができる。
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