生産に至るまで
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ランボルギーニはシャシの製造に着手したが、その作業はあまりに遅く、この事態を打開するためBMWはランボルギーニの買収を検討したが、下請業者がBMWの傘下に入ることを拒否し、この買収計画は頓挫した。1978年4月にはランボルギーニとの提携は解消され、シュトゥットガルトのバウアに委託先が変更された。ボディの生産に関してはイタルデザインの拠点であるイタリアにシャシが送られ、FRP外板の取り付けおよび塗装が行われ、最終的にはBMWモータースポーツによってサスペンションやブレーキ関連の組み付けが行われることとなり、1978年秋のパリサロンにBMW M1として発表された。 しかしこの複雑な生産工程もやはり効率が悪く、そもそもわずか週2台に設定されていた生産ペースは遅れに遅れ、月3台前後がやっとという有様だった。グループ4の参戦条項である「連続する24か月間に400台の生産」(当時)にははるかおよばず、レースに出ないまま終わってしまうことを危惧したBMWはワンメイクレースの「プロカー・レース」を企画し、1979年途中から1980年末に掛けてフォーミュラ1のサポートレースとして開催され、ニキ・ラウダやネルソン・ピケなど、当時のトップクラスのF1パイロットがドライバーを務め、それなりの成功を収めた。 それまでシャシの製造のみを担当していたバウアに最終工程の一部も負担させ、1980年暮れに当初の目標であった400台目がラインオフした。「連続する24か月間」という条件を特別に免除され1981年以降のグループ4参戦を認められたが、1982年には車両規定改正による新カテゴリのグループCが実施されることになっており、M1によるBMWのモータースポーツ活動は当初の意気込みとは裏腹に短命に終わることとなった。総生産台数は477台である。
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生産に至るまで
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「アツタ (エンジン)」の記事における「生産に至るまで」の解説
1936年(昭和11年)に生産が始まったDB601Aの高性能は、やがて日本海軍の知るところとなり、日本海軍は1938年(昭和13年)に、その高性能を活かした高速艦上爆撃機として十三試艦上爆撃機(後の彗星)の開発に着手し、DB601Aの国産化に向けて製造権の取得交渉も開始した。当初、日本海軍は、その国内生産を川崎航空機に行わせようとしていたが、やや遅れて日本陸軍もDB601Aの製造権取得・国産化に乗り出し、海軍の方は十三試艦上爆撃機の機体生産を担当する海軍系の愛知時計電機(後の愛知航空機)にエンジン生産も行わせるよう変更したためもあって、話がまとまらなくなり、陸海軍は別個に製造権取得を進めるに至った。その結果、愛知時計電機が先行して1938年(昭和13年)に、川崎航空機はやや遅れて1939年(昭和14年)1月に、それぞれ別個にライセンス生産契約を締結し、ライセンス料もそれぞれ50万円ずつを支払った。 航空史の調査・研究・執筆を行っている渡辺洋二は、その著書において、当時の製造権取得の方法として、製造権を日本政府が購入する方式をとれば、ライセンス料は50万円の1件ですむところを、別個に交渉したためにライセンス料も別々に負担する結果を招いたと指摘し、日本陸海軍間の強いセクショナリズムの典型としている。 「三式戦闘機#エンジン」も参照
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