生産と配布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 19:26 UTC 版)
チャップ・ブックは、ほとんどは紙による装丁の、8、12、16、24ページの体裁で、しばしば木版画の挿絵が入っているが、時には内容と関係の無い挿絵もあった。収集家の一人ハリー・ワイス(Harry Weiss)は、「多くの場合、印刷は粗悪で、紙質はさらに悪く、様々な物語に適合しているとは限らない木版画の挿絵は紙と印刷の組み合わせ以上にひどいこともあった」と書いている。この分類には厳密な区分はなく、もっと長いものもあり、出来のよいものもあり、歴史について正確なことさえあった。 チャップ・ブックとバラッド製作の中心はロンドンで、ロンドン大火(1666年)までは発行所はロンドン橋周辺に拠していた。その後は、特にスコットランドとニューカッスル・アポン・タインなど地方の発行所が増えたのが目立った。18、19世紀のロンドンでは250余りの出版者がいたことが確認されている。 印刷された数は大量で、1660年代にはイングランドの家庭数の1/3にあたる、40万部の暦が毎年印刷されていた。17世紀ロンドンのあるチャップ・ブック出版業社では、1冊の本につき国内家庭数の1/15分のストックを持っていたという。1520年代のオックスフォードのJohn Dorne書店の業務日誌では、半ペニーのバラッドが1日に190冊売れたことが記されている。ロンドン橋のThe sign of the Three BiblesのCharles Tias氏(特筆されるような業者とは言えない)の1664年資産目録には、チャップ・ブック9万冊を作るための印刷済シート(及び400リーム=20万枚の紙)と、3万7千500枚のバラッドシートが含まれていた。ロンドン橋The Sign of the Looking GlassのJosiah Blare氏の1707年の資産では、3万1千冊の本と、257リームの印刷済シートが記されている。18世紀後半のスコットランド内での販売は、内輪に見積もって毎年20万冊とされる。 印刷業者は行商人にチャップ・ブックを信用で提供し、行商人は各地を巡って市場や祭で売りさばき、売れた分の代金を払った。この方法により、最小限の出費で広範囲に大きな販売ができて、また最も人気のあったタイトルが何であるかを印刷業者にもたらした。人気のある作品は、再版、海賊版作成、再編集され、異なったエディションが生産された。常に市場に目を向けていたフランシス・カークマンは、1598年に印刷して人気のあった「ギリシャのドン・ベリアヌス(Don Bellianus of Greece)」に2つの続編を書いている。 印刷業者はカタログも出した。またチャップ・ブックは、地方のヨーマン(独立自営農民)やジェントリ(郷紳)の蔵書の中に見いだされる。
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