特徴的な装備について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 16:33 UTC 版)
「タッカー・トーピード」の記事における「特徴的な装備について」の解説
当時において、以下のような装備が画期的であった。 元々は航空機用エンジンであった334.1立方インチ(5.48L)の空冷OHV水平対向6気筒のフランクリン・O-335(英語版)を、水冷化しキャブレター仕様の166馬力として搭載した。製造元のフランクリン・エンジン・カンパニー(英語版)は第二次大戦終結により米軍向けの販路の多くを失っており、タッカー向けの改良にも協力的であったという。 標準のマニュアルトランスミッションにはコード(英語版)・810/812(英語版)でも用いられたベンディックス(英語版)電磁真空サーボ式4段変速機を改良したY-1変速機が用いられた。シフトレバーとトランスミッションの間に機械的なリンケージが存在しない為、運転者はステアリングコラムに設けられたごく小さなシフトレバーを操作した後、クラッチペダルを踏み込むと自動的に変速操作が行われるという、後年のセミオートマチックトランスミッションの先駆けのようなシステム(プリセレクタ・ギアボックス(英語版))であった。なお、タッカーはオートマチックトランスミッションの自製を目指し、当時開発されたばかりのビュイック・ダイナフロー(英語版)の技術者に委託してタッカーマチックというトルクコンバータを2つ用いた3速ミッションを開発するが、完成車両には僅か2台(現存車は#1026のみ)しか搭載されなかった。 パワートレインは6本のボルトでサブフレームに固定され、降ろすだけなら僅か数分、載せ替え作業は30分もあれば完了する良好な整備性を有した。 ロールケージの機能を兼ねたペリメーターフレームの採用。 後部へのエンジンマウント(リアエンジン) ティングース・ノーズ(空力学の採用) スリー・ボックス・シート(安全性の向上) サイクロプス・ライト(一つ目の巨人・キュクロープスに由来する名称。中央に3つめのライトがあり、ハンドルと連動して進行方向を照らす。AFSのはしり) シートベルトの採用(人間の体を守る) フロントのクラッシャブル性(衝撃の緩和)、ステアリングギアボックスは前車軸の後方に位置しており、運転者を守る役割を果たした。 フロントシート前の待避エリア(衝突の際同乗者を守る)、この機能の実現の為に通常助手席の前に備えられる事の多いクローブボックスはフロントドアに装着されていた。 埋め込み式内部ドアハンドル(ケガ防止)、他にも内装類には事故時に乗員の負傷を誘発しうる突起物は一切設けられなかった。 脱落式ミラー(同上) フロント・スクリーン・ガラスの前方脱落(車が激突して乗員が衝突した場合を想定し、内側から強い力がかかると外へ外れる)と、飛散防止ガラスの採用。 運転に必要な操作系統を操舵輪周辺に集中配置する、人間工学を考慮した設計。今日でも一体式がごく当たり前であるカーラジオすらも、操作盤と本体を別体式とするほど徹底されていた。 4輪独立懸架にはゴム製トーションバーとショックアブソーバーを併用し、金属製のばねを持たなかった。 ベンチシートを採用した前後席は部品を共用とし、摩耗度合いに応じてシートクッションやシートバックを入れ替え(ローテーション)出来る構造とした。 パーキングブレーキをエンジンキーとは別のキーで施錠できる構造とした。(盗難防止装置の先駆け) なお、本来の構想では自製の589立方インチ(9.65 L)の空冷水平対向6気筒を計画しており、燃料噴射装置の搭載、ポペットバルブの駆動はカムシャフトではなく油圧を用い、更には駆動輪の回転にトランスミッションやディファレンシャルギアを介在させず、エンジンの左右にトルクコンバータを配置してクランクシャフトの回転を直動させるという大変野心的なものであったが、アイドリング時のバルブトレインの油圧制御が困難な上に、60ボルトの巨大なセルモーターで始動する際には外部電源供給が必須になる代物で、騒音が酷く重量も余りに重すぎた為にプロトタイプ以外への搭載は断念された。他にもディスクブレーキやマグネシウムホイール、自己シール式チューブレスタイヤ(ミシュランやコンチネンタルが近年になって実用化した)の搭載が構想されたが、技術上の課題や製造コストの問題でプロトタイプ以外への搭載は断念され、量産車にはストロンバーグ式ダウンドラフトキャブレターや総輪ドラムブレーキなどの妥協をせざるを得なかった。タッカー'48が「トーピード」と呼ばれていた1946年の構想段階では、運転者を中央に着座させ、左右の前席は後席の乗り降りを容易にするよう回転式とし、フロントフェンダーは前輪と共に可動する構造であったが、当時の技術的限界からこれは実現しなかった。しかし、後年になり米国の熱心なタッカー・ファンが、1971年式ビュイック・リヴィエラをベースに、可動式フロントフェンダーと跳ね上げ式のルーフをほぼ再現したレプリカモデルの製作に成功している。 日野自動車でエンジン屋であった鈴木孝は、この車を『「未来の車」と称した野心は一目に値する』としながらも、自身のコンテッサ1300のエンジンルーム設計の際に、うかつにこの車を知っていて真似していたら失敗を誘ったかもしれない、と評している。自身のコンテッサでの経験から見た問題の起きそうな点として、フロントエンジンと比してリアエンジンにおけるエンジンルーム内の埃の多さに対する対策、後方から吸入して下部に抜けさせ、循環が起きないよう冷却風の流れを制御するといった配慮がタッカー'48では特にされていない(タッカー'48はリアフェンダー前方から吸入し後部に抜く構造)点を挙げている。さらに「盛り過ぎ」という点で、折角のアルミが使われた空冷エンジンを、腐食対策された冷却液などまだない時代に水冷化という1点をとってみても無理があった、としている(水冷化による質量増加はRR車の特性にも良くない)。しかし、以上のように冷却に無理があると思えるものの、オーバーヒートの記録はない、という点も指摘しており、設計の余裕のためか、としている。 なお、タッカー'48は1948年に#1027がインディアナポリス・モーター・スピードウェイに持ち込まれ、走行試験が行われた。テスト結果は良好であったが、その時点で会社が破滅し掛かっていた事もあり、結果の公表はされなかった。この事実を知る当時の技術者が、1974年にインディに再びタッカー'48(#1025)を持ち込んでデモ走行を行った。この時のテストドライバーには後にオーバルトラックのレジェンドとして名を馳せる事になるマリオ・アンドレッティとアル・アンサーの2名が起用されたが、両名はタッカー'48を評して「我々は1940年代や1950年代の多くの車種に乗ってきたが、これ(タッカー'48)は同時期のどんな車両よりも先進的で優れた運転性能であった。」「これ程優れた車両であれば、きっと当時の国民の多くがこれを購入したのではないか?」と述べたという。両名ともテスト当日までタッカー'48の存在すら知らなかった上での講評である。
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