プリセレクタ・ギアボックス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 01:47 UTC 版)
「セミオートマチックトランスミッション」の記事における「プリセレクタ・ギアボックス」の解説
モデルTの変速システムは3段以上の多段化に適さず、高速化・高出力化に伴って3-4段のセミATを実現するための新たな方式として、1920年代にプリセレクタ・ギアボックス(英語版)(英: Preselector gearbox)が登場した。 これは、半自動式クラッチと遊星歯車変速機を組み合わせた半自動変速システムで、クラッチペダルの代わりにチェンジペダルを備え、ステアリングコラムまたはダッシュボードに小型のシフトレバーが付いていた。変速段数は4段が主流であった。半自動クラッチには遠心式、電磁式、流体継手などの方式が用いられたが、特に流体継手は滑り現象によってほかの方式よりも半クラッチを行いやすいため、この方式の主流となった。 発進時には、まずシフトレバーを1速に入れ、さらにチェンジペダルをいったん踏んで足を離すと1速につながり、発進できる。半クラッチの必要はないが、アクセルの適度な調節は必要である。2速以上での変速も同様の操作で行われる。停止時にはブレーキを踏めば自動的にクラッチが切れる。変速に先立って変速段を選択しておくことから「プリセレクタ」の名称が生まれた。フランスのコタル(フランス語版)(仏: Cotal)式やイギリスのウィルソン(英語版)(英: Wilson)式が製品化され、概して信頼性の高いシステムであったと言われる。 最初の採用例は1928年にイギリスのヴィッカース・アームストロング社が製造した大型バスであった。特にイギリスとフランスで多く用いられ、1930年代のイギリスでは高級車・中級車にも広く使われた。レーシングカーの分野でもイギリスのレイモンド・メイズ(英語版)がライレーを基に開発した小型レーサー「ERA」がプリセレクタを搭載し、1930年代後半の小型車レースで優れた成績を収めた。またプジョーも1937年にスポーツカー「402ダールマット・スポール(英語版)」にコタル式プリセレクタを搭載し、ル・マン24時間レースで好成績を収めた。第二次世界大戦後に至ってもデイムラーやランチェスター、ドライエなどが採用していたが、1950年代末期には現代型ATの普及によって衰退している。 軍事用途では1942年登場のドイツ国防軍のティーガーI戦車に、マイバッハ製の「OLVAR」8段プリセレクタギアボックスが採用されている。マイバッハは1929年以降自社の高級車でプリセレクタ・ギアボックスの採用実績があり、この技術力を戦車用パワートレインの製作にも反映したものであった。これとは別に、第一次世界大戦のイギリスの重戦車(英語版)では、1917年3月に当時のマーク II 戦車(ドイツ語版)を用いた「オールドベリー変速機試験」(Oldbury transmission trials)が行われ、ウォルター・ゴードン・ウィルソンの遊星歯車式プリセレクタ変速機を搭載したマークII戦車の他、ウィルキンスが各段の変速ギア毎に独立した常時噛合ギアシャフトとクラッチを備えた複式クラッチ変速機搭載のマークII戦車を参加させている。ウィルキンスの複式クラッチ変速機は操縦者が接続するクラッチを選択するだけで変速が完了する、後のデュアルクラッチトランスミッションの先駆例ともいえる構造であったが、両者とも最終的にはハーヴェイ-ジャーニー式油圧伝達装置に敗れ、マーク VII 戦車(ドイツ語版)の制式採用は得られなかった。
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