物語と解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:46 UTC 版)
『老人と海』は、実在した老漁師の体験をヘミングウェイのフィッシング経験と融合させたフィクションである。ヘミングウェイはフロリダ州キーウェストに住居を構え、キューバにも実際に住んで、フィッシングに興じてきた。『老人と海』の創作には、彼の経験から得た海の現実や海洋生物の生態・知識が存分に活用されている。主人公に、きわめて原始的な漁法を行う老漁師を設定したことには、生態系や環境保護に関するヘミングウェイの考えが暗示されており、すぐれて現代的なメッセージが込められている。 また、人間社会から隔絶した大海で孤独に闘う老人を描いたこの作品は、大海に囲まれた「超現実の世界」と老人が出発して最後に帰還する「現実(文明)の世界」という2つの世界に分けて論じられることも多い。例えば、千葉兼太郎は、ヘミングウェイは自我の主体性と現実界の虚しさを両極的に引き離した中に生存の意味を探ろうとしたとし、分裂そのものがこの作品を成立させており、『老人と海』はヘミングウェイ文学における断絶の頂点をなすと述べる。また、新井哲男は、海上での闘いは一種の老人の夢であり、老人は現実を背後に残して夢の世界に入っていくとし、『老人と海』には醜悪な現実からの逃避願望という一面を併せ持っていると述べる。木村達雄は、『誰がために鐘は鳴る』以降、長い間の苦労が虚しくも報いられなかったことで、作者はその悲痛な心境を訴えるために『老人と海』を書いたかに思われるとし、老人はとりもなおさずヘミングウェイ自身ではなかろうかと指摘している。 老人はサンチャゴ、少年はマノーリンという名前を持っているが、実際には単に「老人」、「少年」と呼ばれることがほとんどである。登場人物はこの二人を除いてはほとんどいない。そのほかにはカジキ、サメ、ライオン、トビウオ、グンカンドリ、小鳥、シイラ、カツオノエボシのような動物や魚であり、海や空、雲、星、月、太陽のような宇宙の一部が自然の存在物として、人間や動物と並んで対等に存在している。また、老人は海を「ラ・マル」と女性形で呼ぶ。これは一方で若い漁師たちの中に海を「エル・マル」と男性形で呼び、海を「ライバル、戦いの場、敵」として捉えている者がいることと対照をなしている。 この小説の中心は、自然と闘い抜く老人の不屈の姿であり、人間の高貴さを象徴するものとして描かれている。この老人は、自分を取り巻く小さな生き物に対して常に温かい視線を送り、深い敬意を抱いている。そして、闘いの中で彼が目の当たりにするのは、海の生物の圧倒的な力と美である。これは「神聖なものは平凡なものに宿る」として自然美を称えたエマーソンの系譜に連なる魅力である。そして老人は、大魚と闘ううちに鳥や魚を自分の友達だと考え、太陽や月や星までも友達だと思うようになる。これは彼が自然の一部になっていることを示す。 しかし、自然に対して共生的態度をとる老人も、生きるために愛するものを殺し、摂取する必要がある。このことで老人は悩む。大魚との闘いのなかで、若いころアフリカで黒人とまる一昼夜腕相撲を闘って勝ったことや、キューバ出身で大リーグで活躍している野球選手のことを何度も思い出すが、それらはスポーツであって、相手を殺すわけではない。愛する大魚を殺さなければならない「罪」についての答えが見つからずに反芻する老人の姿は、物語に奥行きを与えている。 老人は三日三晩の間、手傷を負いながらも死力を尽くし、己の持つあらゆる能力を注ぎ込む。これは彼にとって苦痛だが、喜びでさえある。また、一見老人は理想の英雄として描かれているが、人間らしい弱みを持っている。彼は苦境に陥るたびに、「あの子がいたらな」と少年の不在に思いを馳せ、勇気を奮い起こそうとする。 ついに仕留めた大魚を小舟に横付けして港に戻るとき、サメが現れたのは偶然ではなく、老人には予期できていたことだった。最初のサメが襲ってきたとき、老人は銛でサメを仕留めるが、さらに多くのサメが襲ってくることを予想する。 この小説で最も有名な文章が、老人のつぶやきとしてここで述べられている。 だが、人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない。叩きつぶされることはあっても、負けやせん。 橋本治夫(1955年)は、この老人の言葉について、「不撓の闘争精神こそ人間の最高の精神としている」と述べる。 宮本陽一郎(1999年)は、老人と大魚、その後のサメとの闘いを暴力の連鎖と見る立場から、「失敗と成功の逆説的な関わり方は『老人と海』の物語そのものの中で反復されており、サンチャゴ老人は、だれも釣ったことのないような超巨大なマカジキを釣ることに、まさに失敗したがゆえにヒロイックな存在となるのである」とする。 島村法夫(2005年)は、「老人にとって敗北は敗北でない。彼は物事を結果で判断しない。魚との闘いを通して、自己の力や勇気、人間としての犯しがたい尊厳を保とうとしている。老人の魚やサメとの闘いは、与えられた機会にいかに全力を出しきれるかにあった」とする。 渡久山幸功(2012年)は、広大な海において生き残りをかけた生命活動が絶え間なく行われているなか、この悲劇的な結末は、「過酷な自然の厳しさ」が生命を維持するための「自然の美しさ」へと変質する価値転換を要求している瞬間であり、この言葉によって、「過酷な自然の摂理・秩序と人間としての運命を受け入れていることを高らかに宣言している」と述べている。 高見浩(2020年)は、「まさしくヘミングウェイが一貫して希求してきた行動規範、いわゆる "grace under pressure(困難に直面してもたじろがずに立ち向かう)" の具現とも言えるだろう。大海原をただ一人飄然とゆく老人の孤影に、ヘミングウェイは原初的な人間の尊厳を刻みたかったのではなかろうか」としている。 物語のほとんど終わりに登場するアメリカからの旅行客は、大魚の骨をサメの骨だと誤解するが、この部分には、現代社会に向けたヘミングウェイの風刺的眼差しが注がれている。今村楯夫は、これを近現代の小説や演劇で見られる「異化作用」だと指摘している。老人の英知や悟りあるいはその悲劇的な結末に対して、読者がそれをそのまま無批判に受け入れないよう作者が最後に置いた障壁であり、読者の安易な感情移入を阻み、より冷静で複眼的な視点を持つための異物としてここに登場させている。これは、丘の上で倒れたキリストにも似た老人を前にして、人間界のことなど無関心で老人の存在そのものを無視するように通り過ぎる一匹の猫もまた同様である。 また、この二人がアメリカ人であることは政治的な意味を持っている。この作品が書かれた1950年代、バティスタ政権のもとでハバナにはアメリカのマフィアが支配する歓楽とギャンブル社会が存在しており、アメリカ人はキューバをあたかも属国あるいはフロリダと海を隔てたアメリカのリゾート地の延長のごとき意識を持っていた。二人はキューバに対する無理解な「アメリカ」そのものを象徴する存在として描かれている。
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