自然の摂理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:48 UTC 版)
同世代のスコットランド人アダム・スミスは、のちに彼の書籍『国富論』において「見えざる手」(an invisible hand)なる表現をもって著名となったが、無駄のない・合理的な摂理としての「社会のエコノミー」・「自然の成り行き」はバークにとっても重要な概念であった。 バークは、人間の文明社会は、〈幾世代にわたる無意識の人間の行為〉で形成されたものであっても、人間の知力で〈設計〉されてはいないと考え、その人間の行為と〈神の摂理〉との共同作業において開花し発展・成長した偉大なものが文明の社会だと把握していた(『イギリス史略』[要ページ番号])。 バークにとって自由は英国の長きにわたる歴史の中で醸成されたものであり、国王大権と議会特権とのあらゆる嵐と抗争に耐えて維持されてきたのであった。自由は祖先から相続した財産であるがゆえに国家に対して不可侵権をもつのであり、けっして人権や自然権であるからではなく、自由を世襲の権利として正しく永続させ、聖なるものとして保持すべき筋道・方法として歴史上の経験から、世襲王制以外はないと考えた[要出典]。 バークによれば、偏見は諸国民や諸時代の共同の銀行・資本であり、そこには潜在的な智恵が漲って(みなぎって)いる。その偏見はより永く続いたものであり、広く普及したものであるほど好ましい。各人が私的に蓄えた僅少な理性よりは、共通の偏見に従ったほうがよい。言い換えれば、偏見の衣を投げ捨てて「裸の理性」の他は何も残らなくするよりは、理性が折り込んである偏見を継続させる方が遥かに賢明であるという[要出典]。偏見は火急に際しても即座に適用できる。あらかじめ精神を確固たる智恵と美徳の道筋に従わせ、決定の瞬間に人を懐疑や謎で不決断にしたり躊躇(ちゅうちょ)させない。偏見とは人の美徳をしてその習慣たらしめるもの、脈絡のない行為の連続には終わらせないものである。このように、バークの考える偏見は、迷信とは異なり、智恵と美徳をもたらし社会の熱狂を防ぐものである。 一方でバークの「社会のエコノミー」は現代の我々にとって受け入れがたい当時の社会現実を許容することを求めている。それは奴隷的階層の問題であり、社会的に固定された階層が「それが有益である」との結果論をもって肯定されてしまうイギリス功利主義の着想の限界もまた抱えている点である。『省察』においては「〈自然の有機的統一〉(social economy)ゆえに、早朝から夕闇に至るまで奴隷的で屈辱的でうす汚くて非人間的で、しかも健康に極めて有害で病気になりそうな無数の仕事を、多くの気の毒な人々が不可避的に運命付けられているのと同じように(修道士は聖歌隊を歌わせる以外に使い道のない怠惰な者にみえても)有益に使われているのです」としている。
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