炭鉱経営の刷新とは? わかりやすく解説

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炭鉱経営の刷新

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)

大嶺炭田」の記事における「炭鉱経営の刷新」の解説

前述のように山陽無煙炭鉱が日産コンツェルン傘下入った頃から、どん底状態であった大嶺炭田を巡る環境好転し始めたそのような中で山陽無煙炭鉱は抜本的な経営体制刷新断行していく。生産面では深部採炭を行うための大規模な設備投資行った1937年昭和12年)、戦時体制強化の中で石炭増産要請され山陽無煙炭鉱は、深部開発によって年産100万トン無煙炭採掘する計画立てた。そこで地中深く埋蔵されている石炭採掘するために、採掘され石炭搬出鉱員輸送、そして採掘必要な物資の搬送用の、幹線となる斜坑新たに設けることが決定した。この幹線斜坑坑口をどこにするか、それは後述する炭鉱労働者たちの待遇改善策一環として行われた近代的な炭鉱住宅をどこに建設するかという問題リンクして検討進められた。 結局、麦川に美祢斜坑豊田前村三ツ木豊浦斜坑坑口設け、両斜坑最下部に当たる海抜マイナス85メートル地点に、双方をつなぐ坑道である中央坑道設け計画決定された。1939年昭和14年5月豊浦斜坑1940年昭和15年5月美祢斜坑掘削開始され、両斜坑完成後は中央坑道掘削急ピッチで進められた。工事は4交代制1日中休みなく続けられ固い地盤湧水悩まされたものの、1942年昭和17年4月9日全長3648メートル中央坑道開通する。そして1942年昭和17年中に深部埋蔵され石炭採掘するために、中央坑道ベースとして第1斜坑、第2斜坑掘削開始された。 増産のための設備投資並行して山陽無煙炭鉱は就労環境の改善近代化推し進める1938年昭和13年)には飯場制度解体断行し炭鉱労働者名実ともに会社直接雇用するようになった飯場制度廃止した以上、炭鉱労働者スカウト会社自身が行わねばならなくなる。前述のように山陽無煙炭鉱は年間100万トン計画に基づく深部採炭を行うための大規模な設備投資開始しており、炭鉱労働者大幅増員が必要であった求人やり方は、当時炭鉱太郎呼ばれていた各地炭鉱渡り歩いているような人物避け農山村出身堅実な人物長期間雇用していく方針となった。つまり貧しくとも素かつ実直健康な農山村出身者積極的に採用していったのである求人担当九州一円から東は新潟県山梨県付近、そして朝鮮半島まで足を延ばした。また各地炭鉱生活をPRする16ミリ映画上映したり、炭鉱見学訪れた地方自治体担当者職業安定所の人たちを案内接待するなどして人員集め奔走した1939年昭和14年)、中堅技能養成目的とした技能養成所開設された。技能養成所数学、英語、測量電気などの学科講習現場実習カリキュラムとしており、養成期間3年間で、17歳正規職員として採用された。また実習生の中から選抜された者は、直方市にあった鉱山学校就学することができた。しかし、戦時体制強化の中、生徒多く軍隊志願するようになり、実際に修了できた者は半数以下であったという。 そして炭鉱労働者たちの待遇改善基本となったのが、これまでのものよりも設備整った炭鉱住宅新設であった炭鉱住宅美祢斜坑側は麦川の白岩地区豊浦斜坑側は豊田前の麻生地区建設されることになった。この炭鉱住宅福岡県日本炭鉱株式会社経営していた日炭高松炭鉱炭鉱住宅モデルとして、1階6畳2階6畳2階建てとした。これは年100万トン生産目標完遂のために夜勤がある3交代勤務採用したため、夜勤者が昼間睡眠取りすいよう2階建てとしたのであった当時、特に重要な要件でも無い限り昼間夜勤者の家を訪れない習慣となっていた。豊田前の炭鉱住宅1937年昭和12年)から造成工事始められた。当時はまだブルドーザーなどの重機無かったため、人力広大な敷地整地行ったという。 完成した住宅には前述各地農山村からスカウトしてきた新人鉱員、そして職員たち続々入居していった。全国各地からやって来た新人鉱員は、最初それぞれのお国訛り話していたため、炭鉱住宅では様々な方言飛び交っていたという。炭鉱住宅家賃燃料用石炭水道浴場全て無料とされ、電気代のみ支払いがあった。なお水道トイレ浴場共同で、消毒などの衛生管理会社専従職員置いていたため、トイレ排水溝などはいつも清潔であったという。こうして真新しい社宅入居していった新人鉱員職員たち日常挨拶は、「ご安全にとなった。これは危険を伴う炭鉱労働安全対策一環として始められ習慣で、朝の「おはようございます」、昼の「こんにちは」、夜の「こんばんは」ではなく坑内でも坑外でも挨拶は「ご安全に」に統一された。 鉱員家族たちの健康をサポートする病院建設行われたこれまでは麦川にあった診療所医療担っていたが、1939年昭和14年)に美祢病院1941年昭和16年)には豊浦病院開院し、充実した設備スタッフのもとで鉱員鉱員家族のみならず一般住民診療受け入れ地域医療中核となった1939年昭和14年11月愛媛県大三島にある大山祇神社からご神体勧請して、豊浦山神社建立された。なお山無煙炭鉱では麦川の白岩地区にも山神社があった。多く炭鉱では安全祈願のため、山神社祭礼重要な年中行事となっていたが、山陽無煙炭鉱でも重要な行事一つとして位置づけられるようになった祭礼ではまず神事の後、優良従業員永年勤続者らの表彰などが行われ、それから神輿社宅練り歩いた山陽無煙炭鉱の山神社では、大人用本神輿とともに子ども用の神輿作られた。子ども用のみこしはほぼ一本通りごとに一つ、約20作られ山神社祭礼時には各子ども神輿競うように練り歩いたという。 市街地から離れた山間部位置する大嶺炭田は、町にある娯楽利用するのが困難という事情もあって、特に戦後になって山陽無煙炭鉱は地域での文化娯楽充実熱心に取り組んでいく。山陽無煙炭鉱では早くも1943年昭和18年)、白岩男性のみの楽団である南風結成された。山陽無煙炭鉱の鉱員による楽団劇団戦後炭鉱内のみならず地域などで広く活躍していくことになる。 大規模な社宅建設によって、社宅建設された麦川や豊田前も発展し始めた。特に大規模な社宅建築進められ豊田前では、1939年昭和14年)頃から社宅住みだした炭鉱労働者相手商店が立ち始めたこの頃はまだ昼間のみの営業で、通い商売をしていた。1942年昭和17年)頃になると大規模な社宅建設工事工事関係者がやって来て住民増えてきたため、これまで通い商売をしていた人たちも豊田前に定住するようになり、豊田前の商店街活気見せ始めた。しかし戦争激化によって多く炭鉱労働者戦争行ってしまったため、せっかく発展し始めた麦川や豊田前の町も停滞余儀なくされる。麦川や豊田前が本格的に発展するのは戦後になってからである。 日産コンツェルン傘下入ってからの山陽無煙炭鉱は、単に石炭掘って経営者利益を得るばかりではなく勤務形態考慮した炭鉱住宅新築など炭鉱労働者待遇改善を行うとともに地域とのつながり重視し地域との共存共栄目指す姿勢を打ち出していった。このような企業姿勢地域住民受け入れられ大嶺炭田地域では日産の名が長く親しまれるようになった

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