炭鉱構造発展の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 05:40 UTC 版)
露頭採炭から沿層の地下採炭に移るにつれて、湧水と可燃性ガスが問題となった。これらは初期の技術力では、炭坑の寿命を決定する最大の要因になっていた。したがって排水の機械化と換気体系の成立は、深層採炭の前提条件であった。 湧水の問題 自然排水から排水具へ 14世紀中葉から炭層が水準上にある丘陵地帯の炭坑では、山腹に搬出路を兼ねた排水通洞を堀り自然排水する横坑採炭、搬出は竪坑で専用の排水通洞を掘った横洞式浅層採炭が採用され、1600年代には一般的なものとなった。しかし、この方法では平野や横穴が掘れない構造などの困難があり、17世紀初頭に排水通洞の普及と共に排水具が一般的なものとして導入された。 人や馬を動力とする釣瓶式排水機(windlass)や手動ポンプが導入され、これらはそれまでの横坑式の炭坑構造に対して、竪坑構造を中心に斜坑採炭を行うイギリス式の採掘法を決定づける原型となった。しかし、それらの導入でも揚水能力は最大地下15m程度で、一般的に行われた途中に溜池を作り段階的に揚水しても炭鉱の深さが72mを超えるものはほとんどなかった。当時は限界に達すれば、すぐ次の場所で採掘する為、炭鉱の寿命も大抵1年程度であった。 排水機関の出現 17世紀後半になると地表近くの鉱脈も少なくなり、それを知っていた炭鉱町近郊で育ったトーマス・セイヴァリは1698年に蒸気機関を使った吸いあげポンプ「The Miner's Friend」を発明し炭鉱に導入した。しかし、揚水能力のロスが大きく、信頼性・運用性に問題があった。それらは1705年にダートマスの鍛冶職人トーマス・ニューコメンが発明した大気圧機関によって改善された。これらの発明は数々の炭鉱に導入されたが、特許料の関係で一般的な普及には特許の切れる1733年まで待たなければならなかった。 換気体系の成立 火籠 湧水の問題を解決すると、炭鉱の規模は縦横方向に複雑になるに至った。結果17世紀後半では、炭鉱内に溜まった可燃性ガスは外に排出されず炭鉱火災は頻発し、また酸素の供給が無ければ窒息などの作業環境の悪化を招いた。その対策として、17世紀までの外と中の気温差を利用した自然対流から、排気口の下部で火を焚いたり、各所に火籠をつるし空気の対流の促進をはかった。しかし、これらの対策は可燃性ガスと空気との混合を促進したことから空気を燃えやすいものに変え火災の原因ともなった。 閉鎖とファイアマン 炭鉱内に溜まったガスに対して、とくに濃い場所は密閉し閉鎖するか、1677年に実施されたファイアマンという特殊な炭鉱夫によって、人為的にガスを燃焼させる対策が19世紀前半になるまで小規模の炭鉱で取られた。 換気体系の整備 上記の方法は大規模な炭鉱では難しく、換気システムの体系化が迫られた。18世紀初めに木製の遮断壁(一時的な布製の物はカーテンと呼ばれた)を坑道に設ける Face Airingの制度が考案され、1760年にスペンディングが考案した木製やレンガ製の遮断壁で入気道と排気道を分離し、各所に連絡用のトラップドアを設置するcoursing the air制度に発展した。それだけでは不十分で1810年には、ジョン・バドル(英語版)が更に発展させ、炭鉱内の通気エリアを区分して制御するAir Splittingシステムを構築した。 二本の竪坑 1862年にハートレー炭鉱事故(英語版)が発生した。この事故はビームエンジン(英語版)のビーム(天秤の竿)の片側が落下して、落下中に接触したブラティス(英語版)と呼ばれる通気用の木製パイプのほとんどが破損した。結果、炭鉱下部に居た炭鉱夫全員が一酸化炭素中毒で窒息死した。一本だけの竪坑では換気に問題があると考えられたため、1862年8月7日議員立法が可決され、すべての新鉱山には排気用と通気用の二本の竪坑が義務付けられ、既存の鉱山も1864年末までに同様に義務付ける鉱山条例が制定された。 換気扇の設置 1849年には、換気扇が導入されていた。
※この「炭鉱構造発展の歴史」の解説は、「炭鉱」の解説の一部です。
「炭鉱構造発展の歴史」を含む「炭鉱」の記事については、「炭鉱」の概要を参照ください。
- 炭鉱構造発展の歴史のページへのリンク