炭鉱労働者の自治区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 22:30 UTC 版)
以後、三池労組では労使協調派は力を失い、灰原茂雄を中心とする向坂門下の活動家たちが影響力を振るうこととなった。1955年(昭和30年)には、三池労組は三井鉱山に対して、労働者が退職した際には必ずその子女を採用(縁故採用)することを認めさせた。また、労働者自身で各労働者の収入を平均化させるために、割の良い仕事と割の悪い仕事を労働者が交互に輪番制で請け負う制度をつくるなどして、三池炭鉱はさながら労働者の自治区のような様相を呈することとなった。一方で、1953年のストライキの成功によって一部の炭鉱労働者が増長し、事務職員に因縁をつけて吊るし上げたりするようになったため、事務職員は次第に炭鉱労働者との連帯意識を失っていった。
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