気象学への貢献
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「ベンジャミン・フランクリン」の記事における「気象学への貢献」の解説
フランクリンは自然の深い探求者で、以下に示すように気象にも深い興味を抱いていた。ただし(1)と(2)はまだアメリカがイギリスの植民地だった頃のことである。 (1)嵐が移動することの発見 当時嵐については目の前で起こっている雨と風のことしかわからず、嵐がどういう構造や性質や規模を持っているのかなどは全く未知だった。フランクリンは、測定器や観測網がないにもかかわらず嵐が風とともに移動していることに世界で初めて気づいて、それを分析して書き残した。フランクリンの発想が優れていたのは、気象観測網がまだ十分整備されていない時代に、月食という同時の現象を新聞を通して各地の嵐の様子を観察した点だった。 フィラデルフィアに住んでいた彼は、1743年10月21日にアメリカ大陸東部で起こる予定だった月食を楽しみにしていたが、当日は日暮れ前から嵐で天候が崩れたため、月食を見ることはできなかった。ところが彼は後日ボストンの新聞でそこでは予定通り月食を見ることができたことを知った。それでフィラデルフィアで嵐であった時刻に、ボストンはまだ嵐になっていなかったことに気付いた。彼は他の地方の新聞も調べて、嵐が移動してフィラデルフィアから4時間経って400マイル(約640 km)離れたボストンに到達したのではないかと考えた。これをもとに彼は嵐の移動速度を時速100マイル(時速約160km)と推測した 。これは現在から見ると明らかに速過ぎであるが、嵐が移動することに気づいて、その移動速度を世界で初めて見積もったものとなった。こういう嵐に関する知識は、嵐のメカニズムを解明しようとする19世紀半ばのアメリカ暴風雨論争に引き継がれていった。 (2)熱対流と竜巻に関する考察 彼は竜巻を観察し、それが凪と酷暑の後に出現する点に注目した。そして1753年に竜巻を次のように解釈した。"熱は地上付近の大気を希薄する。それが上昇することによって地表気圧の低下を生み出す。気圧が低下すると涼しい大気が四方八方から内部へ流れ込む。大気は低圧部の中心付近に着くと上昇しなければならないが、すぐには運動方向を変えることができない。その代わりにちょうど液体が樽の底の穴に向かって渦を巻く際に右に曲がるように、大気は右に曲がって回転しながら上昇する" 。このフランクリンの解釈は、ほぼ1世紀後に連続した観測データによって裏付けられ、嵐の特徴とその起源の解明のきっかけになった。 (3)火山噴火と季節変動への洞察 彼は気候変動にも強い関心があった。1783年にアイスランドのラキ火山とその近郊のグリムスヴォトン火山が噴火して、大量の火山灰が大気中に放出された。このときのヨーロッパの状況はグレート・ドライ・フォッグとも呼ばれている。フランクリンはこの年の夏の日射が異常に弱く、次の冬は厳冬となったことに気付いた。彼はこの原因を「大気中の塵による煙霧が日射を散乱して地上に届く熱が減ったため」ではないかと考えた。彼は"これまでの歴史上の厳冬もこのような煙霧の後に起こっているかどうかを調査して、もしそうであればそういう煙霧が起こった際には引き続いて起こる厳冬への対策を事前に講じることができる"と指摘した。現在では大規模な火山噴火で火山ガスが成層圏に入ると、エアロゾル(大気中の塵)になって長期間にわたって日射を反射や散乱し、数年間寒冷になることが知られている。フランクリンは気候変動を予測する先駆者でもあった。
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気象学への貢献
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ペリーは嘉永6年(1853年)7月と嘉永7年(1854年)2月に日本の開国を促すために日本遠征(いわゆる黒船来航)を行ったが、その航海途中で1854年2月7日 - 12日の琉球から江戸湾に至る航路での風向・気圧、気温・水温、海流の流向流速を測定していた。 ペリーは航海時の嵐からの安全に意を尽くしており、アメリカの気象学者ウィリアム・レッドフィールドと交流があった。ペリーが出版した「ペリー艦隊日本遠征記(Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)」の第2巻の中には日本遠征時の気象観測データを用いたレッドフィールドによる太平洋の嵐の研究が含まれている。その中には1853年7月17日から28日まで日本を離れたサスケハナ号とミシシッピ号が遭遇した台風の位置記録と気圧計の記録、そして台風の特徴の分析もある。
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気象学への貢献
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「ジョセフ・ヘンリー」の記事における「気象学への貢献」の解説
1846年にワシントン特別区にスミソニアン協会(Smithsonian Institution)が設立された。そして、このスミソニアン協会の最初の理事長の人選が行われ、ファラデーらの推挙によりジョセフ・ヘンリーが理事長に選ばれた。ヘンリーは、通信の発展に大きく貢献した電磁気学の権威だった。しかしヘンリーは若い頃、ニューヨーク州立大学で気象観測のデータを気候データとしてまとめる仕事をした経験があった。このため彼は自らの研究分野である電報システムの気象分野への利用、つまり気象監視の可能性に気づいていた。 ヘンリーはスミソニアン協会の理事長になると、スミソニアン気象プロジェクトとして2種類の観測プロジェクトを立ち上げた。一つは、各地に有志を募って気象観測網を構築し、その観測結果をスミソニアン協会本部へ毎月報告するものだった。スミソニアン協会はそのためにスケールの基準をそろえた気圧計、温度計などを提供し、標準の観測手順や記録様式を規定した。彼らは「スミソニアン オブザーバー」と呼ばれた。当時アメリカは西へ西へと領土を拡大させていた。しかし新たな領土を利用するためには、気候を含めた自然地誌の資料の整備が不可欠だった。スミソニアン協会によるプロジェクトの気象観測網は、植物や動物などの自然地誌的な情報の収集にも貢献した。 もう一つのプロジェクトは、電報網と各電報局の操作手を使った即時的な気象情報の収集だった。電報局の操作手たちは、毎朝通信の開始の試験時に自発的に互いの天候や風などの情報を交換していた。天候の報告地点は、1年以内に150地点、10年以内に500地点に上った。スミソニアン協会は、1949年から操作手たちからの気象情報を本部に集めて、1856年からはスミソニアン協会本部のロビーアメリカの大きな地図に各地の気象状況毎日展示した。さらにヘンリーは気象学者ジェームズ・エスピーの協力を得て、1857年5月7日にアメリカ東部沿岸各地の天候状況と予報を新聞に初めて発表した。 しかし、彼の革新的な試みは、1861年から始まった南北戦争と1865年にスミソニアン協会本部を襲った火災で終わった。この火災で協会本部は貴重な資料や記録、気象測定器類を失った。なおアメリカでは国家による気象事業として、1870年から陸軍信号部によって組織的な気象観測が開始された。 ヘンリーは、気象の監視や天気予報のために国家規模の気象の観測・監視事業を世界で初めて構築し、社会的な基盤が不安定だったこの事業の保護と発展に尽力した。それによって、彼は近代的な気象予報の確立に大きな影響を与えた。
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気象学への貢献
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「ユルバン・ルヴェリエ」の記事における「気象学への貢献」の解説
クリミア戦争の際、黒海で暴風で最新鋭の装甲戦艦アンリIV世号を含む英仏艦隊が壊滅し、陸上の部隊も多大の被害を蒙った。この被害に驚いたフランス政府のベラン陸軍大臣は、当時のパリ天文台長ルヴェリエに嵐の来襲を予測し得るかどうかの可能性について調査を命じた。ルヴェリエは、ヨーロッパ中の研究者たちに、気象観測結果の提供を要請した。彼は嵐の位置と進行方向や速度を電報を使って短時間のうちに知ることができれば、電報を使って嵐の接近を警告することができると結論した。ルヴェリエの報告は意外な発見としてフランスで歓迎されたが、嵐が特定の構造を持って移動することは、アメリカでは1830年代から既に知られていたことだった。 ルヴェリエは1855年2月に当時の国王ナポレオン3世に組織的な気象観測と通報計画を提出した。ルヴェリエは気象観測結果の電報を用いた定期的な国際交換の必要性を各国政府に説いて、国際的な即時的気象観測網の設立に尽力した。1856年7月からヨーロッパなどの約30地点の気圧、気温、風向・風速、天候などを記載した気象報告の毎日の発行を開始した。さらに1863年8月からは等圧線が描かれた天気図の発行と暴風警報業務を開始し、フランスは国の事業として天気図を毎日発行する世界で初めての国となった。この天気図は後の「大気大循環図」や「世界気象図」の元となるなど、気象学の進歩のための貴重な基盤となった。
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