気象学・スコティア号・第一次世界大戦
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「G・I・テイラー」の記事における「気象学・スコティア号・第一次世界大戦」の解説
1911年にテイラーは気象学の一分野である気象力学 (dynamical meteorology) のリーダー職(reader)(英語版)に着任する。このポジションはマンチェスター大学の教授であったアーサー・シュスターが私財を投じ、当時多分に経験的な学問であった気象学に数学者を招き入れ解析的かつ定量的な研究を励行するため新設されたものであった。テイラーはそれまで気象学の研究経験はなかったのだが、着任後大気中の風の流れの分布などを観測し、乱流の等方性や温度、運動量の拡散への影響についての考察をはじめた。 1912年のタイタニック号が氷山に衝突し沈没した事故を受け、イギリス政府は1913年に複数の船舶会社と共同で氷山の位置を調べる観測船スコティア号(Scotia)を派遣した。スコティア号に気象学者として乗船したテイラーは船上から凧や気球を飛ばし、大気中の様々な高度での温度、風向、風速、湿度などを観測した。これらの観測結果によりテイラーは乱流による輸送現象についての理解をさらに深めることになる。初期に発表された論文としては、スコティア号の観測結果と他の船による海表面の気温のデータから大気中の温度、流れなどの分布を見積り、それを「渦による伝導度」(eddy conductivity)により説明した論文がある。また、この論文では乱流による輸送を分子運動によるそれになぞらえたときの平均自由行程の役割を果す混合距離 (mixing length) の概念がプラントルに先駆けること10年で導入されている。この頃テイラーは大気中の乱流についての懸賞論文"Turbulent motion in fluids"(「流体中の乱流運動」)をケンブリッジ大学に提出し、アダムズ賞を1915年に受賞している。 1914年8月4日第一次世界大戦の勃発を受け、同月6日よりテイラーはファーンボロ(英語版)のロイヤル・エアクラフト・ファクトリで軍用研究に携わった。ここでテイラーは航空工学の黎明期に関わることになった。当時のファーンボロにはメルヴィン・オゴーマン(英語版)の指揮下にエドワード・テシュメーカー・バスク(英語版)、ヘンリー・ケーブブラウンケーブ(英語版)、F. W. アストン、フレデリック・リンデマン(英語版)、ウィリアム・スコット・ファレン(William Scott Farren)、ハーマン・グロワート(英語版)、R. H. ファウラー(英語版)、G. P. トムソン、メルヴィル・ジョーンズ(英語版)、A. A. グリフィス(英語版)などがいた。軍用研究の多くは航空機に取り付ける装置の設計に関するものだった。機器を用いるパイロットとやりとりするよりも自らが機器を操作した方が効率が良いと判断したテイラーは、一旦ファーンボロでの科学者としての任務を離れてイギリス陸軍航空隊に練習生として入隊し、飛行機の操縦およびパラシュート降下を学んだ。ファーンボロに戻ったテイラーは真っ先に自分で飛行機を操縦しながら翼に取り付けた(自らの設計した)機器によって飛行中の翼周辺の圧力分布を測定している。圧力分布を積分すれば翼による揚力がわかるのだが、当時は揚力についての理解はまだ始まったばかりであり、風洞と模型による測定が実際の航空機について適用可能かどうかも未確定であった。そのため実際の飛行中のデータは貴重なものであった。実機によるこの種の測定を実行したのは恐らくテイラーが初めてである。その後テイラーに倣ってファーンボロの科学者の一部は飛行機の操縦を学んだという。またプロペラシャフトの強度に関する研究をグリフィスとともに行なっている。これは後のテイラーの固体物理学への貢献、すなわち転位(dislocation)に関する理論・実験のきっかけとなるものだった。 1917年にはファーンボロを離れイギリス陸軍航空隊の気象学に関する顧問 (advisor) となり、夜間飛行の訓練などに関わった。この時期にはスコティア号遠征時に得られたデータを用いた霧の発生の研究や乱流に関する論文、また回転流体中の物体の運動に関する(テイラーにとって最初の)論文を発表している。 大戦後、テイラーは学問の世界にすぐには戻らず、世界初の無着陸大西洋横断飛行を競う『デイリー・メール』主催のレースにハンドレページ社のチームの一員として参加した。テイラーの役割は天測航法をナビゲータに教えることと気象観測だった。チームの他のメンバーはパイロットハーバート・ブラックリー(英語版)、ナビゲータートリグヴェ・グラン(Tryggve Gran)とマーク・カー(英語版)で、ほとんどの取りまとめを行なった技術者は後にカナダ空軍の技術部門を統括することになるアーネスト・ウォルター・ステッドマン (Ernest Walter Stedman) であった。各チームはニューファンドランド島に集まりハンガーや機体の組み立てから始めた。ハンドレページの機体は他社のものよりも大きかったため完成に時間がかかり、テスト飛行を完遂する前にパイロットジョン・オールコック・ナビゲーターアーサー・ウィッテン・ブラウン(英語版)によるヴィッカース社のチームが大西洋横断に成功した(オールコックとブラウンによる大西洋横断飛行(英語版)参照)。そのためハンドレページ社のチームは結局大西洋横断を取り止め、ニューヨークまで飛行するに留まった。
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