昭和期の女子競輪
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「ガールズケイリン」の記事における「昭和期の女子競輪」の解説
昭和の競輪創世期には、女性のプロ競輪選手だけで行われた競輪「女子競輪」が存在し、代表的な女子選手として、奈良の田中和子や神奈川の渋谷小夜子、山口の畑田美千代などがいた。 『競輪の生みの親』とされる倉茂貞助は、競輪創設時に「競馬に対抗するためには何とか新機軸をひらかねばならん」という考えから、(ショービジネス的な側面も含めて)女を走らせなければ自転車競技に新鮮味を持たせることができない、としきりに言って女子競輪の開催にこぎつけた。 まずは103名を募集し、1948年11月、小倉競輪場での競輪初開催と同時に女子競輪もオープンレースとして開催された。倉茂は女子のレースも男子のそれと同様に車券の対象としたかったが、一条信幸 に強硬に反対されたこともあり、当初はオープンレースとしての開催となった。だが、観客からは拍手喝采で迎えられ、その反応は車券の対象となる男子の競走にも劣らないものであった。1949年10月に行われた第2回全国争覇競輪で正式な競輪としてのレースとなり、当初は女性の新職業として大いに脚光を浴びた。 のち日本サイクリストセンター(現在の日本競輪選手養成所)が設立されてからは、1951年の男子に続いて1952年4月に女子選手の全国一斉募集が行われ(ただし応募は25歳までという年齢制限があった)、この時は100名程度が採用され、2か月程度の期間で訓練が行われた。 女子選手の格付けは、開始当初はA級・B級の2層(当時の男子はA級・B級・C級の3層)とされた が、1951年3月の全国競輪施行者協議会の総会において、男子はA級・B級の2層とした上で、女子は男子B級待遇とすることが決まり、B級1班・2班の2班制となった。 当時の自転車はリムが木製であり、またバンク地面がセメントではなく板張りのところもあった。元選手によると、移動は夜行列車が中心で、四人が向かい合うボックス席の座席と座席の間に板を渡して、足を伸ばして寝ていたこともあった。賞金は、大卒の初任給の平均が9,000円の時代に、多い時で4万円あったという。他に優勝者には副賞として賞品もあり、18金ネックレス、着物、鶏肉、タンスなどが贈呈されたが、宅配便などなかった時代であり、荷物はすべて自分で持って帰っていたという。 開始当初は女性誌等のグラビアで取り上げられる など、多方面に話題を提供したこともあった。また、主に開設記念で年に1度「ミス・ケイリン」と題した女子選手のみでの開催が行われていたことがあり、特に京王閣競輪場の開催ではオール女子選手による開催でも売り上げはそれ以外の普通開催にも劣らなかったことから、その企画が賞賛されたこともあった。 女子競輪においても特別競輪(現在で言うGIレースに相当)があり、当初は全国争覇競輪、高松宮妃賜杯競輪、全国都道府県選抜競輪、競輪祭にて女子の部が開催されていた。だが、1957年の第12回全国争覇競輪の女子の部が直前になって突如中止されて以降は徐々に縮小され、競輪祭は1958年の第4回大会以降では実施されず、また全国都道府県選抜競輪でも1962年の第19回大会が最後となり、女子競輪が廃止された1964年時点では高松宮妃賜杯競輪のみとなった(各大会の優勝者はそれぞれの項目を参照のこと)。 畑田美千代が田中和子に取って代わって優勝した1956年の第11回全国争覇競輪あたりまでが女子競輪の人気のピークであった が、後述の理由で次第にその人気は下火となり、多くの競輪場が女子競輪の開催に及び腰となっていった。最盛期の1952年には669名もの女性選手が在籍したが、体力の限界や結婚などで引退する者が相次ぎ、選手数も1959年には394人、1961年には294人にまでその数を減らしていき、またデビュー当時18 - 19歳だった選手らも徐々に高齢化したため、晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であった。デビューする新人選手の数も大きく減り、1954年から3年間は0人で、その後1958年と1960年にそれぞれ30名程度が採用されデビューしたのが最後となった。なお、旧日本競輪学校に入学してデビューした女子選手は332名であり、全登録者のうちおよそ1⁄3程度であった。 結果的に女子競輪の人気は長続きせず、廃止直前の1964年の時点では女子選手1人当たりの斡旋回数は1か月間で平均1回程度 という有様であった。そして同年8月、末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除が決定し、9月8日に開催された名古屋競輪場でのレースが最後となり、10月31日付けで選手登録消除となり全員が引退し、開始から僅か15年ほどで昭和期の女子競輪は幕を閉じた。そして翌11月に各地区の自転車競技会単位で送別会が行われ、最後まで残った女子選手全員に記念品と感謝状が贈呈された。 その後、1965年6月8日に行われた第16回高松宮杯最終日にて、かつて高松宮妃賜杯に参加した元女子選手のうち13名が招待され、近江神宮にて参拝後に座談会、閉会式では高松宮宣仁親王を囲んでの歓談と記念撮影が行われた。 なお、女子選手が男子選手と結婚 し、その子供も競輪選手になったという例としては、中野浩一、佐々木和徳・昭彦・浩三の三兄弟、大森芳明、近藤幸徳などがあげられる。共に競輪選手であった福田明・恵津子夫婦は、陽生・祐治・匡史・篤司の4人の息子が競輪選手になり、さらに篤司の息子の拓也、祐治の娘の礼佳 も競輪選手になった。特に、恵津子と礼佳は、祖母と孫娘が競輪選手という現在まで唯一の例である。大森芳明の息子、慶一・光明 や、近藤幸徳の息子、良太(故人)・龍徳もともに競輪選手となり、特に龍徳はヤンググランプリを制覇するなどトップレーサーに登り詰めている。姉妹兄弟としては西本喜美子が2人の弟が競輪選手だったことから興味を持ち、自らも選手となったことで三姉弟選手が誕生した例がある。 昭和期の女子競輪の様子と社会情勢については、元選手である原田節子の自伝『女子競輪物語 青春をバンクにかけて』、または『競輪文化 - 「働く者のスポーツ」の社会史』(古川岳志/著)、『競輪二十年史』、『競輪三十年史』(いずれも日本自転車振興会発行)に詳しい記述がある。このほか、フィクションの世界でも、1950年公開の映画『シミキンの無敵競輪王』(清水金一主演)では清水演じる大山長助が試作した新型自転車を女子競輪選手(演じていたのはのち清水の再婚相手となる朝霧鏡子)にレースで試用してもらうシーンがあるほか、1956年公開の映画『女競輪王』では前田通子が演じた主人公・椎野美樹が女子競輪選手となり女子競輪で活躍する姿が描かれている。
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