昭和期の女子競輪とは? わかりやすく解説

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昭和期の女子競輪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 13:45 UTC 版)

ガールズケイリン」の記事における「昭和期の女子競輪」の解説

昭和競輪創世期には、女性プロ競輪選手だけで行われた競輪女子競輪」が存在し代表的な女子選手として、奈良田中和子神奈川渋谷小夜子山口畑田美千代などがいた。 『競輪生みの親とされる倉茂貞助は、競輪創設時に「競馬対抗するためには何とか新機軸をひらかねばならん」という考えから、(ショービジネス的な側面含めて)女を走らせなければ自転車競技に新鮮味持たせることができない、としきりに言って女子競輪開催こぎつけた。 まずは103名を募集し1948年11月小倉競輪場での競輪初開催同時に女子競輪オープンレースとして開催された。倉茂は女子レース男子のそれと同様に車券対象としたかったが、一条信幸 に強硬に反対されたこともあり、当初オープンレースとしての開催となった。だが、観客からは拍手喝采迎えられ、その反応車券対象となる男子競走にも劣らないものであった1949年10月行われた第2回全国争覇競輪正式な競輪としてのレースとなり、当初女性新職業として大い脚光を浴びた。 のち日本サイクリストセンター(現在の日本競輪選手養成所)が設立されてからは、1951年男子続いて1952年4月女子選手全国一斉募集が行われ(ただし応募25歳までという年制限があった)、この時は100程度採用され、2か月程度の期間で訓練が行われた。 女子選手格付けは、開始当初はA級・B級2層当時男子はA級・B級C級3層)とされた が、1951年3月全国競輪施行者協議会総会において、男子はA級・B級2層とした上で女子男子B級待遇とすることが決まりB級1班2班2班となった当時自転車リム木製であり、またバンク地面セメントではなく板張りのところもあった。元選手によると、移動夜行列車中心で、四人向かい合うボックス席の座席座席の間に板を渡して足を伸ばして寝ていたこともあった。賞金は、大卒初任給平均が9,000円の時代に、多い時で4万円あったという。他に優勝者には副賞として賞品もあり、18金ネックレス着物鶏肉タンスなどが贈呈されたが、宅配便などなかった時代であり、荷物はすべて自分持って帰っていたという。 開始当初女性誌等のグラビア取り上げられる など、多方面に話題提供したこともあった。また、主に開設記念で年に1度「ミス・ケイリン」と題した女子選手のみでの開催が行われていたことがあり、特に京王閣競輪場開催ではオール女子選手による開催でも売り上げそれ以外普通開催にも劣らなかったことから、その企画賞賛されたこともあった。 女子競輪においても特別競輪(現在で言うGIレースに相当)があり、当初全国争覇競輪高松宮妃賜杯競輪全国都道府県選抜競輪競輪祭にて女子の部開催されていた。だが、1957年第12回全国争覇競輪女子の部直前になって突如中止され以降徐々に縮小され競輪祭1958年第4回大会以降では実施されず、また全国都道府県選抜競輪でも1962年第19回大会最後となり、女子競輪廃止され1964年時点では高松宮妃賜杯競輪のみとなった各大会優勝者それぞれの項目を参照のこと)。 畑田美千代田中和子に取って代わって優勝した1956年第11回全国争覇競輪あたりまでが女子競輪人気ピークであった が、後述理由次第その人気は下火となり、多く競輪場女子競輪開催及び腰となっていった。最盛期1952年には669名もの女性選手在籍したが、体力限界結婚などで引退する者が相次ぎ選手数も1959年には394人、1961年には294人にまでその数を減らしていき、またデビュー当時18 - 19歳だった選手らも徐々に高齢化したため晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であったデビューする新人選手の数大きく減り1954年から3年間は0人で、その後1958年1960年それぞれ30程度採用されデビューしたのが最後となった。なお、旧日競輪学校入学してデビューした女子選手332名であり、全登録者のうちおよそ1⁄3程度であった結果的に女子競輪人気長続きせず、廃止直前1964年時点では女子選手1人当たりの斡旋回数1か月間で平均1回程度 という有様であった。そして同年8月末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除決定し9月8日開催され名古屋競輪場でのレース最後となり、10月31日付け選手登録消除となり全員引退し開始から僅か15年ほどで昭和期の女子競輪は幕を閉じた。そして翌11月各地区の自転車競技会単位送別会が行われ、最後まで残った女子選手全員記念品感謝状贈呈された。 その後1965年6月8日行われた第16回高松宮杯最終日にて、かつて高松宮妃賜杯参加した元女選手のうち13名が招待され近江神宮にて参拝後に座談会閉会式では高松宮宣仁親王囲んで歓談記念撮影が行われた。 なお、女子選手男子選手結婚 しその子供も競輪選手になったという例としては、中野浩一佐々木和徳・昭彦・浩三の三兄弟大森芳明近藤幸徳などがあげられる。共に競輪選手であった福田明・恵津子夫婦は、陽生・祐治・匡史・篤司の4人の息子競輪選手になり、さらに篤司の息子拓也、祐治の娘の礼佳 も競輪選手になった。特に、恵津子と礼佳は、祖母と孫娘が競輪選手という現在まで唯一の例である。大森芳明息子、慶一・光明 や、近藤幸徳息子良太故人)・龍徳もともに競輪選手となり、特に龍徳ヤンググランプリ制覇するなどトップレーサーに登り詰めている。姉妹兄弟としては西本喜美子2人の弟が競輪選手だったことから興味持ち、自らも選手となったことで三姉弟選手誕生した例がある。 昭和期の女子競輪の様子社会情勢については、元選手である原田節子自伝女子競輪物語 青春バンクにかけて』、または『競輪文化 - 「働く者のスポーツ」の社会史』(古川岳志/著)、『競輪二十年史』、『競輪三十年史』(いずれも日本自転車振興会発行)に詳しい記述がある。このほか、フィクションの世界でも、1950年公開映画シミキン無敵競輪王』(清水金一主演)では清水演じ大山長助試作した新型自転車女子競輪選手演じていたのはのち清水再婚相手となる朝霧鏡子)にレース試用してもらうシーンがあるほか、1956年公開映画女競輪王』では前田通子演じた主人公椎野美樹女子競輪選手となり女子競輪活躍する姿が描かれている。

※この「昭和期の女子競輪」の解説は、「ガールズケイリン」の解説の一部です。
「昭和期の女子競輪」を含む「ガールズケイリン」の記事については、「ガールズケイリン」の概要を参照ください。

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