昭和期の改修工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 21:59 UTC 版)
昭和期に改修されるまでは断面の形状も不規則であり、出水ごとに越流または破堤して、堤内地に入った水は洪水となって田畑や人家の流出被害を出した。伊勢湾台風では2430 haが氾濫している。 琵琶湖から岩倉川合流までの8740 mの区間が改良された。歌詰橋より上流部は河積狭小であり連続する堤防がない状態であり、改修によって河積の拡大と線形の改良を行って安全な流下を図った。また、東海道新幹線より上流で発生した洪水を新幹線と並行して新設された排水路(新愛知川・豊郷川)でそれぞれ25 m³/sの水量を流下させるため、これを完全に受け入れる目的もあった。特に愛知川町(現:愛荘町)川久保地区では地盤が低いため出水ごとに長時間浸水(伊勢湾台風の時は68時間)だったため、河床を低下させることで排水を促した。昭和27年までに調査が終わり、昭和28年以降からは中小河川改良工事として施工が始まったが、昭和34年に伊勢湾台風で被災したためそれ以降は災害関連事業として事業が進められた。この改修に伴い、境川合流点より下流は543.4 m³/s[立法メートル毎秒]、それより上流は530.4 m³/sの計画洪水量で設計された。 昭和40年台風24号によって宇曽川の肥盥橋付近で300 m³/sほどの水量におそわれ、宇曽川上流部とその支川で被害が出たため、上流部が支川とともに改良復旧された。改良までは流下能力が230 m³/s以下の部分があり、無堤部が多い状態であった。 ここまで2回の河川の改良を経てきたものの、今後の工業化や都市化を見据えて洪水調節機能や流水調節機能を持ったダムの建設が必要になった。そこで宇曽川ダムの建設が行われた。昭和44年(1969年)度から調査が行われ、1972年(昭和47年)10月9日に起工式が行われた。ダムサイトの河床部に幅約20 mほどの断層破砕帯が2本通っており、左岸取付部にも1本存在する状態だった。また、ダムサイトの地形は左岸側は緩斜面、右岸側は40度前後の傾斜でU字谷とV字谷の中間のような構造であった。こうした地質を考慮して、ダム型式はロックフィルダムとした。このダムより下流の計画降水量は東海道新幹線との交差地点で730 m³/sとした。ダムの建設は1980年(昭和55年)6月5日に完成した。堤高56 m、堤長192.8 m、総貯水量2960万立法メートル。 昭和58年6月の豪雨で漏水や河床低下が発生し、彦根市や豊郷町で床下浸水が生じるなど被害を受けた。そのため被災していない区間も含めて河積の拡大や線形の改良の工事が行われた。この工事では環境保全も同時に行われ、階段工(親水河川利用護岸)・魚巣ブロック・緑化護岸・河川公園の施工も行われた。 こうした河川改修工事によって、河口から10 kmあまりは細く屈曲した川から美しい護岸が整備された川に生まれ変わった。
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