昭和期に於けるハンセン病収容者問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:58 UTC 版)
「日本の刑務所」の記事における「昭和期に於けるハンセン病収容者問題」の解説
「日本のハンセン病問題」、「菊池医療刑務所」、および「特別病室」も参照 1947年8月、日本共産党は患者にも参政権が認められたので、ハンセン病療養所である国立療養所栗生楽泉園を訪れ、そこに懲戒検束規定に基づく特別病室、別名「重監房」を見学した。そこでは22人が獄死していた。国会で論議となり、悪質な患者の処分に困窮した療養所は刑務所の建設を要求、また厚生省は代用監獄案を提出した。その後、国立療養所栗生楽泉園で韓国朝鮮系の患者により3人が殺害された事件を機に刑務所の必要性が強く認識されるようになった。更に熊本県で藤本事件が発生し、国立療養所菊池恵楓園に接続して1953年に法務省管轄下の菊池医療刑務支所が設置された。一般のハンセン病療養所の入所者は、菊池医療刑務支所から出所した患者を療養所に受け入れず、様々な問題を残した。1982年に古い建物は更新されたが、1996年らい予防法廃止時その機能は廃止された。長年入所者はいなかった。
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