昭和期〜高度成長期の南銀座〜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 04:54 UTC 版)
「大宮南銀座」の記事における「昭和期〜高度成長期の南銀座〜」の解説
また昭和40年代までは、当時東京上野駅に準じて北の玄関と呼ばれた国鉄大宮駅の北へ向かう旅客者向けのプラットホーム売りの駅弁を製造販売する、大宮駅南口南銀座入り口付近所在の「ムサシ食品(ムサシ産業有限会社)」と、南銀座中央で現さくら小道突き当たりに所在だった「(合資会社)三立軒」という、今は無き2軒の国鉄構内営業中央会会員業者があり、その売り子達が首から下げた籠に多数の弁当箱を積み、日に何度も南銀座通りを行き交うという、いかにも鉄道の街「大宮」らしい光景も見られた。現在まで半世紀以上も続く歴史ある飲食店も少なくない反面、昔からの商店街の住民は繁華街に変貌するとともに減り、現在ではこの地域に居住している人は少ない。また、昭和の高度成長期、この一帯は県内有数の「パチンコ街」または「映画館通り」としての娯楽遊戯の街としても広く知られ、当時の南銀座通りでは、陽が落ちると酔客や店の宣伝看板を持ったサンドイッチマン、各店舗へ向かう従業者達が行き交い、深夜になるとパチンコの玉を磨く機械の音があちこちで響く中、流しのギター弾き達が路地裏の小料理屋の暖簾をくぐり、中山道や駅前では客待ちタクシーの渋滞、朝になると残飯目当ての猫やカラスの姿を横目に足早に駅へ向かう通学、通勤者の往来、午前には新作映画の封切りに並ぶカップルや子連れ家族の行列、午後には各商店、飲食店への慌ただしい業者の食材搬入などと、朝、昼、晩と全く異なる多面的な通りの光景がみられた。
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