女子競輪衰退の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:27 UTC 版)
「ガールズケイリン」の記事における「女子競輪衰退の理由」の解説
昭和期の女子競輪が衰退していった理由としては 男子と比べれば選手の数が少ない上に、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多かった。最後の直線でのデッドヒートはまず起きず、大概は100円台の配当であり、たまに本命選手が敗れる番狂わせが起これば万単位の大穴が出る、といった状況 で、ファンとしては車券が買いづらくギャンブルとしての魅力が乏しかった。ほかにも、女子は生理などで体調管理が難しい面もあり、当時は予想屋が懇意の客に「今日●●(選手名)は生理だから来ない(連に絡まない)よ」と囁くことも多かったという。 施行者側が、以下の理由で女子競輪の開催を敬遠するようになった。女子選手は上記の田中や畑田などのように西日本に多かった一方で、比較的女子競輪の人気が高かったのは南関東など東日本であり、施行者側も人気強豪選手を呼ぶには多額の交通費を支払うことになるため、経費面がネックになっていった。また特定の地区に選手が偏っていたこともあり、斡旋する側も番組編成に困難をきたしていた。 「家庭の都合」などを理由に競走不参加を続ける不真面目な選手も多く見られるなど『プロ意識』に欠ける選手も多く、施行者側としても選手確保に頭を悩まされた。他にも、競走参加の意思表示をしながら前検日に競輪場に現れず"ドタキャン"する選手や、勝ち目がないと分かると無気力に走る選手などがおり、特にこれらについては施行者側から改善するよう要望書が出されたほどであった。ただ一方で、以下のように著しく抑えられた斡旋回数に対して真剣に改善を訴える選手もおり、1961年2月には代表して7名の女子選手が当時の全選手の署名を集めた陳情書を携えて通産省(当時)などに陳情に訪れている。 女子競輪は八百長と誤解されるようなレースが多く見受けられた。当時の競輪でも「男子B級および女子選手にして競走成績を続けて15回、出走実員数の半ば<端数を生じた場合は切り上げ>に達しない着位 となった場合は、登録をまっ消する」という、現在の代謝制度に通ずる制度があり、クビがかかった選手のために協力して上位の着順に引き上げる、という『互助的な八百長』があった模様。特に選手層が薄く全員がB級であった女子は、助け合いの横行が全選手の問題とされた。 元々男子と比べて賞金体系が低く設定されていた上に、人気低下から女子競輪の開催自体が減少したため、収入面から競輪選手に対する魅力が薄れ、新たに競輪選手を目指そうとする女性が減少し新陳代謝が進まなかった。元選手によると、当時の賞金は大卒の初任給よりははるかに高額であった。参考に、1952年の佐世保競輪場での開催では、1レースで本賞金7,500円(1着)・出走賞(出走手当)1,300円から所得税と共済基金が源泉徴収され手取りは7,540円であった。また、渋谷小夜子は現役時代、年間約200万円を稼いだ(参考に、同時期に活躍した男子選手では、1952年の賞金王であった高倉登が374万円)。 特に、圧倒的な強さを誇ったスター選手の田中和子が引退したあと、それに代わる新しいスター選手を育てられなかった。 男子は競輪が開始される以前から、古くは明治より新聞社等の主催による自転車競技大会が盛んに行われてきたため「ノンプロ(アマチュア)選手」としてそれなりの下地を積んだ選手が少なからず入ってきたが、女子は当時、自転車競技そのものに取り組む選手が皆無同然だったため、ごく一部の選手を除いて最初から選手の質の維持に問題があった。女子のプロスポーツ選手が本格的に注目されるようになったのは、ゴルフの樋口久子、ボウリングの中山律子や須田開代子、プロレスのマッハ文朱らが出現した昭和40年代になってからであり、女子競輪が存在した頃の日本女子スポーツ界はまだオリンピックを頂点としたアマチュアスポーツ全盛の時代で、一定の年代が訪れると概ね結婚のため現役を退いた 時代でもあった。女子競輪も『アクセサリー』のような見方をされており、したがって現代のように、アマチュアスポーツからプロスポーツへの転身などほとんど考えられていなかった時代であり、高い能力を有する選手の流入に限界があった。 などが挙げられている。
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