教祖在世時代とは? わかりやすく解説

教祖在世時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:06 UTC 版)

天理教」の記事における「教祖在世時代」の解説

天保9年10月23日1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、みきの長男・秀司の足の病の原因究明回復のために、修験道当山派内山永久寺配下山伏中野市兵衛祈祷依頼したその時市兵衛が災因を明らかにするためにする祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子一変し、まったく別人になったのような著し変化があり、いわゆる憑依状態に入った。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる。このときに憑依悟った市兵衛が「あなたは神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえたとされる市兵衛あらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷いんねんあり。このたび世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。」と語り、親神天王命がみきに憑依し天啓受けたとされている。中山家古くから庄屋年寄といった村役人をつとめる家であり、同時に質屋業営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行ける善兵衞としても、元の神の思召の激しさ一抹懸念は残るが、さりとて家庭現状思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても一同揃うて重ねてお断り申し早々に昇り下さい。」とあるように、再三辞退続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対振り切る形で、10月26日同年12月12日になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾したそのときのみきは「満足、満足」とこたえて憑依終わったとされている。みきの三男で後の初代真柱中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた。天理教では、この日を「立教の元一日」と称しここから天理教歴史始まったとされる。こうして天理教立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内内蔵にこもりがちになり、遂に終日出てこずに内蔵に籠った教祖誰もいないはずの蔵の中誰かと話をするかのように眩く声がの外まで漏れて聞こえてくることもあった。次第中山家評判悪化し史実でも庄屋中山善兵衞の名前は天保10年1838年3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所提出したのを最後に地方文書から消えている。 その後、みきは神命従い近隣貧民惜しみなく財を分け与え、自らの財産ことごとく失うことがあっても、その信念は変わらなかったとされる41歳で「月日のやしろ」に定まったみきの精神状態は不安定で、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあったみきだが、その後内蔵篭るともなくなり、精神状態回復したものの、家財道具貧民施したり、屋敷取り払い母屋田畑売り払えといったみきの言動家族親戚のみならず村人役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年1842年)には夫・善兵衛をはじめ多く親族が、みきの行為を気の狂い憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている。 この後長らく具体的な布教行われず嘉永6年1853年)に夫・善兵衛死去すると、当時17歳であった五女のこかんに浪速現在の大阪)・道頓堀神名を流させに行かせたとされている。。翌年三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願儀式的行為である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来毒忌み凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第評判呼び、これをきっかけとして近隣の住民信仰集め、また人々病気治すなどの奇跡起こし、みきの評判教え広がっていた。 元治元年1864年)ごろにはみきを慕うものも増え旧暦10月26日専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始この頃には辻忠作、仲田三郎山中忠七古参として教団形成影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上許し」を与えられ神意取り次いだ後の本席である飯降伊蔵夫妻入信している。しかし信者らは、天理教への信仰さえあれば、みきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ医者から治療を受ける必要はないと説いたために大和神社神官地元僧侶村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年1874年)に教部省から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル取締ノ件」という布達違反、また明治13年1880年)に制定され翌年から施行され当時大阪府違警罪の一項「官許得ずして神仏開帳し人を群衆せしもの」にも違反し警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立表面化していったこうしたなかで、信者らは各地出向き布教行いはじめ、みきも慶応2年1866年)、『あしきはらひ たすけたまへ てんりんおうのみこと』の歌と手振り教示翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し手振りのほかにも鳴り物稽古はじめた地元住民からも苦情相次ぐ中で、側近達は、教団としての認可活動を得ることを試みたが、親神は教会認可活動認めず幾度と無く反対意思示している。同年長男・秀司が京都神祇管領吉田家願い出て7月23日布教認可得て公認となり迫害収まったその間にみきは神命従い明治元年1868年)には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年1869年正月から『おふでさき』を書き始め第一号(正月)と第二号(3月)を執筆翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形模型)製作、同8年6月29日旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。 しかしながらこのころより官憲取締りが再び活発化神具没収続いて信仰差し止め誓約書署名強いられたこの中でもみきは天命貫き通し1875年明治8年)には奈良県庁より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変断行される。取締り厳しくなった1880年にはみきの長男・秀司が既成宗教傘下に入ることを試み高野山真言宗願い出て光台院末寺金剛山地福寺のもとに「転輪王講社」を結成したが、翌年活動中心担っていた秀司は死去している。眞之亮は神道一派として講社立ち上げることを試み1885年明治18年5月23日に、神道本局傘下の六等教会神道天理教会」として認可されたが、大阪地方局認可下りず、6月18日教会設置却下されている。その後もみきだけではなく信者家族も度々留置拘留を受け、1886年明治19年)には「最後御苦労」と呼ばれるみき最後12日間の拘留を受ける。こうした動き止めよう眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動展開する中、その認可を見ることなくみきは翌年2月18日旧暦1月26日午後二時ごろに90歳で死去した

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