教祖時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 19:16 UTC 版)
神理教会が1880年に許可される。教祖は1881〜1882年に上京、1887年には、山陽、信濃、東京と巡教、1889年には一派独立の願いのために上京、神戸、西京でも巡教する。独立前の1890年には分教会50、信徒50万人としている。独立後の1894年には、広島、岡山、伊勢、名古屋、北陸にも巡教する。 『内務省統計報告』によれば、教師数は、独立の1894年から500人ほどであったものが1912年には2000人前後で、男性が8割以上を占める。神理教大本庁に保管された「巫神占免許」の取得者の記録を見ると、第1号は1895年9月17日に任命され、1906年まででは男女比は男性が2割ほど多く、平均すると毎年130人程度が任命されている。 免許取得者を都道府県別にみると、本庁のある北九州周辺と、そこから海路の便の良い瀬戸内海沿岸の山口県、四国、広島県、岡山県であり、港が近くにある地域が多い。神理教の教えを布教する支部教会が多かった。 1906年、教祖死去の時点で、門人約7千人、信徒150万人としている。
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