教団への指摘とは? わかりやすく解説

教団への指摘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:59 UTC 版)

天理教」の記事における「教団への指摘」の解説

現在の宗教法人天理教教会本部中山みき教え明らかな違いがあるという指摘多くあり、明治期の「応法の道」と呼ばれる改革、および昭和期、特に第二次世界大戦中の「革新」によってみきの主張歪曲され権力迎合したが、それらは戦後の「復元」後も天理教団内に根強く残っているという研究もある。そもそもみきは教会公認および設置運動否定的であった神意ではなかったと宗教学者島田裕巳村上重良ライター早川和広らが批判している。 天理教教会本部編纂した稿本天理教教祖伝においては立教以後のみきは神性強調され人間性問われず、したがってすべての行動が神的存在として人々救済する活動さまざまな現れでしかなかったとする批判があり、ジャーナリスト青地晨著書天理教三十年目の信仰革命』の中で、神がかり時点からのみきが既に神だと見られ苦悩希望などの人間的感情伴わないという教義解釈は、みきは自己判断能力失い、神に操られる人形等しいというふうに述べている。同様の指摘では、天理大学付属おやさと研究所教授幡鎌一弘が、教祖50年の「ひながた」と中山みき現前性(存在証明)の二つ支えられて、教祖死去明治20年で終わる『稿本天理教教祖伝』の枠組みそのものが、中山みき物語狭めているのではないか述べている。 教団内部からの批判としては、元天理教教会本部修養科講師で元天理教本嬬原分教会会長八島秀雄1970年代後半教団批判展開しており、1979年には櫟本分署保存会発足させ代表となっている。1985年12月教会機関紙『ほんあづま』202号で、教祖百年祭機に応法の理である神道教理や儀礼廃止し教祖教えた通りに「かんろだい」を目標にして各教会おつとめ行いみかぐらうたおふでさき基づいて教育せよと提唱したため、翌年教会長職罷免されている。その後八島教会から立ち退かなかったために、八島宗教法人天理教との間で裁判が行われている。この裁判の中では1991年5月31日東京地方裁判所にて、元天理教統領清水国雄が「八島英雄氏が主張する教説いわゆる八島教学について真柱が、異端とか、異説とか、異安心裁定したことはないし、意見述べたともないまた、天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学異端とか、異説とか、いかなる判定下したことはない。」という内容証言述べている。八島教学とは八島著書中山みき研究ノート』内でのみきの考察であり、そこでは教祖に関する数々逸話否定されている。この八島異説には天理教青年会ほか教団内部からの反論もあり、天理教青年会本部機関紙『あらきとうりょう149号で、唯物論的教祖実在からかけ離れていると批判し史料合わせて反駁しているほか、『確かな教理理解のために』という反駁本も出版している。みさと原典研究会の代表で天理教御里教会長をつとめていた植田義弘故人)は多数著書の中で、現在の教団原典対す態度批判している。 特に現在の教団重要な教えであるとされる月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に嫁入り時の荷物初め食物着物金銭に至るまで、次々と困って居る人々施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述は、八島のみならず島田も『日本10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を湾曲化して信者から金を取ろうしたため貧に落ちきれ」という思想生まれた指摘している。また、これに関連して嘉永6年1853年)、みきの五女・こかんの「浪速現在の大阪)での神名流し」についても史実的伝承が乏しいとされ、これに関しては『改訂 天理教事典』内で矛盾生じている。 また天理教との関わり深かった小説家芹沢光治良著書教祖伝』にて、教団成立認めず真の信仰世界求めている教祖中山みき教団作ろうとする弟子との理念衝突に関する描写によって、教団批判立場見られる。また「教団というものは、神の教えにも、人間信仰にも、さして関係がないことだが、教団ができると、信仰がそれに結びつけられて、神の教を曲げることが、しばしば起きる」とも書かれている1987年発表された『神の慈愛でも、天理教教祖中山みき死後、「をや」の言葉取り次いだ人が本席と呼ばれる飯降伊蔵のみであることに触れ飯降死後存命教祖教祖殿納まり教祖言葉取り次ぐ者も天啓者も現れいとして天理教指導者である真柱が神の代理者となり、真柱中心となり彼に都合のいいものだけで教理を創って教会公布した、という内容述べている。宗教学者弓山達也はこのことに関連して著書『啓のゆくえ―宗教分派するとき』でほんみちほんぶしんおうかんみちなどの宗教団体天理教から分立したことについて、特に飯降死亡後大正から昭和初期にかけて多く誕生していることに触れ中山みき飯降伊蔵死後、親神の意思伝え天啓者がいなくなったことに起因していると分析している。以上のように教祖本来の教え探求する者や教団批判する信徒対し教会本部徹底的に処分する構えをみせている。→天理教社会学研究

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「教団への指摘」を含む「天理教」の記事については、「天理教」の概要を参照ください。

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