とくがわ‐いえもち〔トクがはいへもち〕【徳川家茂】
徳川家茂 (とくがわいえもち)
徳川家茂
徳川 家茂 (とくがわ いえもち)
1846〜1866 (弘化3年〜慶応2年) |
【十四代将軍】 十四代将軍。公武合体、将軍上洛も虚しく、幕府崩壊が迫る。 |
14代将軍(在職1858〜66)。紀州藩主徳川斉順の長男。初め慶福。4歳で紀州藩主となる。一橋慶喜とともに将軍世継ぎ候補となり、慶福を推す井伊直弼が大老に就くと、13歳で将軍に就任、家茂と改名した。公武合体のため、皇妹和宮と結婚。朝廷の攘夷実施の求めにより、歴史的な上洛を敢行した。第2次長州征討のとき、内政外交が混迷する中、大坂城で21歳の短い生涯を病に終えた。 |
年(和暦) | ||
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 | 7才 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 | 9才 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 | 12才 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 | 14才 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 | 16才 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 | 17才 |
・渋沢 栄一 | 1840年〜1931年 (天保11年〜昭和6年) | +6 |
・Morel E. | 1841年〜1871年 (天保12年〜明治4年) | +5 |
・沼間 守一 | 1843年〜1890年 (天保14年〜明治23年) | +3 |
・Griffis William Eliot | 1843年〜1928年 (天保14年〜昭和3年) | +3 |
・尾上 菊五郎(五世) | 1844年〜1903年 (弘化元年〜明治36年) | +2 |
・沖田 総司 | 1844年〜1868年 (弘化元年〜明治元年) | +2 |
・Balz E. | 1849年〜1913年 (嘉永2年〜大正2年) | -3 |
・星 亨 | 1850年〜1901年 (嘉永3年〜明治34年) | -4 |
・小泉 八雲 | 1850年〜1904年 (嘉永3年〜明治37年) | -4 |
・Conder J. J. | 1852年〜1920年 (嘉永5年〜大正9年) | -6 |
・Eckeert Franz Von | 1852年〜1916年 (嘉永5年〜大正5年) | -6 |
・島田 三郎 | 1852年〜1923年 (嘉永5年〜大正12年) | -6 |
・高村 光雲 | 1852年〜1934年 (嘉永5年〜昭和9年) | -6 |
・明治天皇 | 1852年〜1912年 (嘉永5年〜大正元年) | -6 |
徳川家茂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 15:05 UTC 版)
徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代将軍(在任:1858年 - 1866年)。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受け、慶福(よしとみ)と名乗っていた。
注釈
出典
- ^ 『和歌山市史』
- ^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版、2011年。
- ^ 河内八郎「和宮降嫁」『日本大百科全書』小学館。
- ^ 山口和夫「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」(初出:大津透 編『史学会シンポジウム叢書 王権を考える-前近代日本の天皇と権力-』(山川出版社、2006年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7) 2017年、P264・272
- ^ 海上安全万代寿 - 早稲田大学図書館
- ^ 徳川恒孝監修 著、徳川記念財団 編『徳川家茂とその時代 ─若き将軍の生涯─』江戸東京博物館、2007年。
- ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』〈新潮新書〉2005年5月。ISBN 978-4-10-610119-9。
- ^ “大河ドラマ「青天を衝け」に磯村勇斗、深川麻衣、中島歩、板垣李光人ら17名出演”. 映画ナタリー (ナターシャ). (2021年1月26日) 2021年1月26日閲覧。
徳川家茂(とくがわ いえもち)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 18:13 UTC 版)
「SIDOOH/士道」の記事における「徳川家茂(とくがわ いえもち)」の解説
江戸幕府第14代征夷大将軍。長髪で菓子好き。家茂はわずか20年の生涯であったが、幕末の動乱期の中をその若さで潜り抜けていることは高く評価されている。勝海舟からは、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価されている。
※この「徳川家茂(とくがわ いえもち)」の解説は、「SIDOOH/士道」の解説の一部です。
「徳川家茂(とくがわ いえもち)」を含む「SIDOOH/士道」の記事については、「SIDOOH/士道」の概要を参照ください。
徳川家茂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:47 UTC 版)
「ばくだん!〜幕末男子〜」の記事における「徳川家茂」の解説
十四代目将軍。普段は弱気だが、気概はしっかりしている。股間の一物はマコトが驚愕するほと大きい。
※この「徳川家茂」の解説は、「ばくだん!〜幕末男子〜」の解説の一部です。
「徳川家茂」を含む「ばくだん!〜幕末男子〜」の記事については、「ばくだん!〜幕末男子〜」の概要を参照ください。
徳川家茂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:47 UTC 版)
第14代将軍。少年の頃に紀州から江戸城に移り住み、皇女和宮を妻に迎える。第2次長州征伐で大阪入りした後に発病し、良順を始め侍医団を心の拠り所としつつ若くして世を去る。
※この「徳川家茂」の解説は、「胡蝶の夢 (小説)」の解説の一部です。
「徳川家茂」を含む「胡蝶の夢 (小説)」の記事については、「胡蝶の夢 (小説)」の概要を参照ください。
徳川家茂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:32 UTC 版)
第十四代徳川幕府将軍。海舟・一翁が仕えた青年。わずか二十一歳で病没する。
※この「徳川家茂」の解説は、「お〜い!竜馬」の解説の一部です。
「徳川家茂」を含む「お〜い!竜馬」の記事については、「お〜い!竜馬」の概要を参照ください。
徳川家茂(とくがわ いえもち)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 18:00 UTC 版)
「一路」の記事における「徳川家茂(とくがわ いえもち)」の解説
将軍。優秀な人材を求め、左京大夫の真の姿を御庭番に探らせる。
※この「徳川家茂(とくがわ いえもち)」の解説は、「一路」の解説の一部です。
「徳川家茂(とくがわ いえもち)」を含む「一路」の記事については、「一路」の概要を参照ください。
徳川 家茂(とくがわ いえもち)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 14:10 UTC 版)
「あかね色の風 -新撰組血風記録-」の記事における「徳川 家茂(とくがわ いえもち)」の解説
徳川幕府十四代将軍。高杉らの暗殺の標的となるも、新選組の影ながらの活躍により暗殺計画は失敗に終わり、代わりに高杉の飛ばしたヤジに驚き慄く。
※この「徳川 家茂(とくがわ いえもち)」の解説は、「あかね色の風 -新撰組血風記録-」の解説の一部です。
「徳川 家茂(とくがわ いえもち)」を含む「あかね色の風 -新撰組血風記録-」の記事については、「あかね色の風 -新撰組血風記録-」の概要を参照ください。
「徳川 家茂」の例文・使い方・用例・文例
- これは徳川幕府への強烈な打撃となりました。
- 『カムイの剣』は、1868年の徳川将軍時代の崩壊と、明治天皇下での日本の復興という変革期を舞台にした、一種の侍/忍者物語だ。
- 徳川家の系図を列挙しなさい。
- 徳川幕府は1868年に終わりを告げた。
- 徳川幕府.
- この珍しい風習の起源は徳川時代にさかのぼる.
- 嘘で固めた徳川幕府
- 明治政府は徳川幕府の跡に立った
- 日本は徳川の世に栄えた
- 徳川に向かって弓を引く
- 日本外史は平氏から始まって徳川時代で終る
- 徳川幕府の治世に
- 徳川栄華録
- 徳川栄華録(書名にすれば)
- 家光は徳川三代の将軍
- 徳川時代
- 時の人は皆徳川の徳を謳歌した
- 日本外史は平氏から始まって徳川氏で終わる
- 徳川の四天王
徳川家茂と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 徳川家茂のページへのリンク