初代 RS型/S2#型/S3#型(1955年 - 1962年)
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「トヨタ・クラウン」の記事における「初代 RS型/S2#型/S3#型(1955年 - 1962年)」の解説
1952年(昭和27年)から開発着手され、1953年(昭和28年)から発足したトヨタ独特の「主査制度」でマネージャー的立場に置かれた技術者の中村健也を主査として開発されたものである。国外メーカーとは提携せず、米国車の各コンポーネントを手本としながらではあるが、純国産設計で開発された。スタイリングはトヨタの社内デザインで、太平洋戦争後に高級車の象徴となったアメリカ車の影響が濃厚であった。後部座席の乗り降りしやすさを重視した、観音開きのドアが車体構造上の特徴である。エンジンは1953年(昭和28年)に先行登場したトヨペット・スーパーから流用された水冷直列4気筒OHVのR型を採用し、排気量は1.5 L、出力は48 PSであった。コラムシフト(リモートコントロール式と称した)の3速手動変速機は、2、3速にシンクロナイザーを装備した。公称最高速度は100 km/h。 従来のトラックなどと共通の汎用フレームに代わる、低床の乗用車専用シャシを開発した。サスペンションは、フロントがコイルスプリングによるダブルウィッシュボーン式の独立懸架、リヤはリジッドアクスル(固定車軸)を半楕円リーフスプリングで吊る車軸懸架方式である。この時代の日本は道路の舗装率が低く、また、補修も追いつかない状況であったことから、日本製乗用車で独立懸架の採用はほとんどなく、トヨタでも1947年(昭和22年)のトヨペット・SAで採用したが不成功で、その耐久性が懸念されていた。クラウンでは長期間の走行実験によりこれを克服し、悪路に耐えうる水準の独立懸架を実現している。また後車軸は固定車軸となったが、東京大学教授の亘理厚らによる研究成果を活かし、重ね板ばねの枚数を少なくして板間摩擦を減らすことで乗り心地を改善した「3枚ばね」とした。このためショットピーニングによるばね鋼の強化処理やショックアブソーバーの併用など、以後、常識化した技術が導入されている。 トヨタ初の本格的なプレス製造による量産を行うため、元町工場に当時最新鋭のアメリカ・ダンリー社製プレス機を14台導入した。このプレス機は現在でもトヨタ産業技術記念館に展示されている。 一方、タクシー向け営業車や商用車では、クラウンの独立懸架シャシに依然として耐久性への懸念があった。そこでトヨタでは、傘下の関東自動車工業に設計を依頼し、並行してセダン型の「トヨペット・マスター」、そしてライトバンとピックアップトラックの「トヨペット・マスターライン」が開発され、同社で生産された。これらは前後輪ともばね枚数の多いリーフスプリングで固定軸を吊った構造とし、トラック同様の高い強度の足回りを持たせたうえで、パワートレーンなどはクラウンと共通とした。しかし、クラウンがタクシー用途に導入されると独立懸架の耐久性に問題がないことが判明し、タクシー会社からも好評であったため、マスターは短期間で生産が中止され、マスターラインも後にS20系クラウンと共通のボディへ変更された。予想外の短期間で廃止となったマスターのプレス型は、初代スタウトや初代コロナのボディに多くが流用され、損失を最小限に抑えた。 1955年(昭和30年)1月1日 - 発売。 12月1日 - 、真空管式カーラジオやヒーターなど、この当時における「高級車」としてのアコモデーションを備えたトヨペット・クラウン・デラックス(RSD型)を追加。 1957年(昭和32年) - ラウンド・オーストラリア・トライアル(英語版。出場したラリーの名称はモービル・ガス・トライアル。)に出場して完走。総合47位、外国賞3位の成績を残した。これがトヨタにおけるモータースポーツの歴史の始まりである。 1958年(昭和33年)10月 - マイナーチェンジ。型式がRS型からRS20型に変更され、エクステリアの意匠変更に伴うクラウン初の大規模なフェイスリフトが実施されたほか、オーバードライブ機構が採用された。1959年10月には、C型ディーゼルエンジン搭載車(CS20型)が追加されたが、これは日本製市販乗用車で初のディーゼル車となった。ただし生産は少数に留まり、1961年3月まで生産された。 1960年(昭和35年)10月 - マイナーチェンジ。小型車規格の変更・拡大(全長×全幅×全高・4,300 mm×1,600 mm×2,000 mm以下→4,700 mm×1,700 mm×2,000 mm以下、ガソリンエンジンの総排気量・1,500 cc以下→2,000 cc以下)に伴い、再び型式が変更(RS20型→RS21型)。、また、デラックスに3R型1.9 Lエンジンを搭載した1900デラックス(RS31D型)が登場。また、同時に「トヨグライド」と名付けられた2速オートマチックトランスミッションを搭載したAT車を追加。 1961年(昭和36年)3月 - 1900スタンダード(RS31型)を追加。これに伴い、ディーゼル車を含む1500シリーズを全廃。事実上、同時期に追加され、R型1.5 Lエンジンを搭載した2代目コロナの1500シリーズがクラウン1500シリーズの代替車種となる。 輸出仕様 1957年(昭和32年)10月 - 当時のトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の共同出資により設立された現地法人、米国トヨタ自動車(現在のToyota Motor Sales, U.S.A., Inc., TMS)から発売。トヨタの対米輸出車第1号であり、左運転席仕様である。搭載エンジンは当初の1.5 Lでは出力不足が著しく、普及しつつあった州間ハイウェイのランプの上り坂をまともに登れないほどだった。後にエンジンは1.9 Lに変更されたが、連続高速運転でのオーバーヒートは収まらず、シャシの操縦安定性も危険なレベルと評された。ユーザーから「冬の朝は、バッテリーが上がって始動できない」と苦情が殺到するなど電装系の信頼性も低かった。更に価格面でも、ビッグ3のフルサイズ大衆車の6気筒ベースグレード車や、コンパクトカーだがクラウンよりも大きいAMCランブラーの上級車種と競合する価格帯で、この面でも競争力を欠いた。当時の日本車は米国車と技術的な格差が大きく、TOYOPET(トヨペット)ならぬ、TOYPET(トーイペット・おもちゃのペット)と揶揄され、1960年(昭和35年)に対米輸出をいったん停止している。販社とディーラーを立ち上げたものの、肝心の商品がなくなってしまい、改良後のクラウンとティアラで輸出を再開するまでの間、ランドクルーザーのみで繋ぐことを余儀なくされた。 初代クラウンの生産終了前月までの新車登録台数は15万3528台。 RSD型 RSD型(リヤ) RS-L型(輸出仕様) 豪州一周ラリー出場再現車
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