輸出車第1号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:53 UTC 版)
オートモ号が輸出された1925年当時の上海では1万台以上の自動車が走っており、これは当時の東京で走っている台数よりも多く、欧米の自動車会社にとって上海はアジア地域での販売主戦場のひとつでもあった。必然的に、自動車部品の需要も旺盛で、森村洋行は、横浜ゴム製BFグッドリッチタイヤの上海の日本企業向け販売を担当しており、その他の自動車部品の販売や、タクシー事業の運営等も行っていた。 オートモ号を輸入した杉山は売り込みを始める前に、まずは知人のアメリカ人に見せてみたが、説明はろくに聞いてもらえず、「日本人の発明は人力車と味の素だ、鉄製品はガスパイプ同様なものではないか」と冷やかし半分の嘲笑的な扱いを受ける。売り込みは、まず日本の会社や工場に見せて回り、購入には至らなかったものの、特に紡績工場(豊田紡織廠)の技術部の人々は熱心に車を見てくれたという。続いて、現地の中国企業にも見せて回ったが、当時の日本の工業力は軽く見られており、結局、販売は挫折することになる。宣伝も兼ねて、森村洋行でタクシーとして数台を輸入することも計画されたが、これも資金難により実現には至らず、輸出車第1号はその後の販売には続かないものとなってしまった。 なお、この「輸出車第1号」のオートモ号が上海に送られた1925年11月以前に、当時日本の領土だった朝鮮と台湾には既にオートモ号を送ったことがあったと豊川は述懐している。事実として、白楊社が1925年8月に出した広告では「朝鮮総督府へ納入せるオートモ号」として、京城府の崇礼門(南大門)前に置かれたオートモ号の写真が使われている。 輸出第1号車については、当時の専門誌である『モーター』誌など、一部で「国産車輸出第一号」として報じられてはいるが、白楊社や杉山はそのことをことさら宣伝するようなことはしなかったため、その事実はしばらく忘れ去られることになる。転機となったのは1958年頃で、タクリー号(1907年製造)から半世紀となったことを機に戦前の日本における自動車製造についての検証が盛んになり、輸出車第1号であるオートモ号も「再発見」されて脚光を浴びることになった。
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